出会いと発見 13

大学でフェルデンクライスを教える

古くからの会員の中にはご記憶の方もいらっしゃると思いますが、桜並木のキャンパスで知られるICU(国際基督教大学)の体育館で、今年の4月から学生たちにフェルデンクライス・メソッドを教えています。ICUの三橋先生のご厚意でICUの体育館で、何回かフェルデンクライス研究会の講習会を持つことができたのは、もう10年ほど前になります。その第1回はちょうど4月上旬で、正門から体育館まで満開の桜の見事なアーチの下を感動して歩いたのを今でも鮮やかに思い出します。

何でも今年から文部省の教育指針が若干改訂され、体育課目の中に今までとは異なるアプローチを含めるような方向が示唆されて、ICUではその一環としてフェルデンクライス・メソッドによるボディワークを取り上げようということになり、保健体育科の松岡先生や三橋先生からのお話があって、とりあえず一年間の非常勤講師として引き受けることになったという次第です。

今まで初心者ばかりを対象とするワークショップを行ったことは何度かありますが、殆どは1回きりのもので、数回にわたるものは2度しか経験していません。今回は1学期9回のコースを3学期にわたって行うことになっています。各学期とも参加メンバーは異なります。先週でちょうど1学期が終了したところですが、20名の女性クラスが2つ、10名の男性クラスが1つの都合3クラスでした。

全員フェルデンクライスなんて聞いたこともなく、ボディワークという言葉すら知らなかった学生たちを相手に、何とか1学期を終えたわけです。1回が70分という枠なので、毎回1レッスンと簡単な説明でぎりぎりですが、何とかフェルデンクライス・メソッドという巨像の鼻先だけではなく、足や口や尻尾やお腹や背中など、できるだけ多くの場所に触って少しでも全体像に近づいてもらおうと努めました。今回は、この体験をかいつまんで報告してみたいと思います。

ビギナーへのアプローチ
どんなときでも新鮮な気持ちでレッスンをと心がけているのですが、全員が初心者となると、否応なく新鮮で、さらに不安な気持ちにすらなります。果たしてどう切り出したらいいものか、どういう側面から近づけばいいか、最初のレッスンはどれを選ぶか、9回のコースを通じてどのように展開するか、大勢のメンバー個々の疑問や問題意識にどうやって対処するか、・・・20歳ぐらいの若ものたちばかりのクラスで、みんながフェルデンクライス・メソッドをどういう風に受け取るだろうか、考え出すと、いろいろと難問が湧いてきます。

研究会や朝日カルチャーセンターのレッスンでは、参加者たちは、たとえそれがどんなものか知らないとしても、みんな自らすすんでフェルデンクライス・メソッドを学びたいと思って、そのために参加しているわけです。こういう場合は、たとえ初めての人でも、すでにある各自の自発的な学習意欲に答えるようにしていけばコミュニケーションは自然に生まれてきます。

しかし今回の場合は、単位をとるための課目として選択する学生も少なくないだろうから、そういう学生からも学習意欲を引き出さねばならないなどと考え込みます。それに、今までフェルデンクライス・メソッドに関心をもってレッスンに参加するのは、若い人には少なく、多少とも心身面で挫折を味わった人に多かったのです。だから、どうしても20代後半から30・40代以上の人たちが多くなります。ならば、若ものたちの興味を引くような仕掛けを仕込んでかからねばうまくいかないかもしれない、などとやる前からいろいろ考えをめぐらせたものです。

幸いにというか、私は俳優座で毎年新人俳優を養成する仕事をここ10年以上続けてきて、役者の卵たち相手に演技の時間に必ずフェルデンクライスのレッスンを取り入れてやってきました。彼らは殆どが20歳前後ですから若い連中とのつき合い方には、ある程度の経験はあります。しかし、心と体を解放することが第一歩であると共に一生の課題でもある俳優に比べると、一般の学生はやはり問題意識に違いがるのではないだろうか‥‥。やる前にいろいろ考え取り越し苦労の面があったかもしれませんが、いま1学期が終わって振り返ってみると、今一度フェルデンクライス・メソッドの教え方について、ついなおざりになりがちだった点を反省するためのいい機会だったと思います。

ICUでのレッスンプラン

フェルデンクライス・メソッドは今まで常識とされてきた価値観をひっくり返さなければ到底理解できない面が多々あります。そのため、今まで自分で作り上げてきた概念や考え方にしがみついている人にとっては、なかなか受け入れ難いものがあります。だから、最初にフェルデンクライスの考え方を理論として一方的に強調するような始め方をすると、かえって従来の価値観に閉じこもって受け付けなくなる人も出てきます。むしろ、実際のレッスンによって、体を通して新しい身体感覚を直接体験してもらうことが何よりも勝ります。その体験の中から、今までの自分に疑いを抱き何か新しいものを発見してやろうという自由な心が生まれてくるようになれば、レッスンは新鮮な出会いの場になってきます。

ATMは言葉だけで進行するレッスンですから、いつ、なにを、どのように言うかがとても大切です。レッスンの進行状況を万遍なく見渡しながら、そのとき一番大事なことが何かを判断して言葉にすることが求められます。しかし、その言葉はある動きやある答えを強制するようなものであってはなりません。指示される動きはその方向を示すに止めるべきで、形を規定するようなものになってはフェルデンクライスの本質を裏切ることになります。
1学期の9回のコースを3回ずつに分けて、最初の3回は基本中の基本、丸まる、ねじる、反るという動きの基本レッスンを取り上げました。第1回は、丸まる動きですが、仰臥して頭の下に手を入れ、両膝を立てて、膝と頭あるいは肘を近づけるレッスンでした。これを主に右側だけでやって左右の違いがどんどん大きくなったところでレッスンを終えました。約半数が左右の違いの大きさに驚いたようでした。

2回目はねじる動きとして『フェルデンクライス身体訓練法』の「レッスン5」、両腕の三角形を倒す動きを取り上げました。多少シンプルにして、動きのバリエーションを増やしたりしましたが、すごく面白がるものと苦労していたものとが半々ぐらいでした。3回目には、うつ伏せになって、頭・腕と脚を上げる動きです。そして最後には手で足を持ってエビのように体を反らせるポーズにまで行きました。

以上、最初の3回では、微妙な動きより、やや大きい動きで体の変化をダイナミックに味わいたいという傾向が全体に強かったと思います。

次の段階では、最初の段階の基本を応用して、さらに楽しめる動きとして、転がる動きを取り上げました。一つは足を持ち上げて体を丸めて頭に近づける動き、『フェルデンクライス身体訓練法』の「レッスン8」をやり、その次には、膝を持って転がり、それから座るまでの動きを取り上げました。この段階での三つ目は、骨盤の回転です。時計の文字盤のレッスンが有名ですが、この段階でそこまで行くのは少し早いと思います。仰臥して両膝を立て、片足で床を押して骨盤を転がし、それが全身へどのように伝わっていくかを探索するレッスンを行いました。この第2の段階では、部分と全体の関係、動きの中心あるいは原動力がどこにあるかを体験的に実感でき、レッスンに対する興味が一段と高まりまったようです。

最後の段階の3回は、部分に対する細やかな意識と、それが全身に及ぼす影響を味わうレッスンとして、まずエロールフリンとして知られているレッスン、仰臥して両腕を横へ伸ばし、床上でその腕をさまざまに転がし、全身との関係を探るレッスンでした。その次は『フェルデンクライス身体訓練法』の有名な「レッスン10」を取り上げ、最後には左右に回転して立ち上がるまでをやりました。これでは、目、肩、胸、腕、骨盤、そして脚と、身体各部への繊細な感受性が必要となります。そして最終回は、『心をひらく体のレッスン』に出ている最初のレッスン、螺旋状に立ったり座ったりを繰り返す動きを取り上げ、動きの基本的要素の説明をかねて全体を締めくくりました。

学生たちの反応
このコースでは最初に、毎回レポートとしてレッスンの感想や質問などを書いて、次週までに提出するようにと言いました。しかし、これは義務ではなく、みんながどんなことを考えているか、レッスンをどう受け取っているかを知りたいからだと伝えました。提出するのは半分もあればいいほうかなと思っていたら、最終結果ではほぼ7割ぐらいが5回以上、そして毎回提出したのが2割ぐらいになりました。内容は、B5のレポート用紙にびっしり書いてくるものから、数行のものまで千差万別でしたが、レッスンの結果、これだけ多くのフィードバックを体験したのは初めてだったので、ものすごく新鮮な体験でした。全部で300枚以上のレポート用紙の山を前に「教えることは教わることである」という言葉を改めてかみしめています。以下に学生たちのレポートから、いくつか紹介してみます。

「この授業の内容をほとんど理解していないまま初日参加した。“楽だ。楽なのはいいのだが本当にこれで体力がつくのだろうか”。最初はこのように思っていたが、体を動かしているうちに何か異変を感じた。言葉では説明しにくいような不思議な感じであった。私はこの不思議な感じを言葉で説明できるくらいもっと体を動かし、体でこの不思議な感じを深く知りたいと思う。今学期はこのような“知りたいこと”がるから目標をもって体育の授業に取り組みたいと思っている」(M.Y)

「小さな動きが体に大きな影響をもたらしたのがおもしろかった。自分では余り左右の違いを感じられなかったが、何人かの人の右目が大きく開いていたのが印象的だった」(M.N)

「目を閉じて他の人のことを気にせずにレッスンを受け、終わってまわりを歩くように先生に言われとき、受ける前とは違い周りに他の人がいたけれど自分が歩きたいように歩き回れたという事実が、なんだか自分を素直にしてくれる気がした」(N.Y)

「最初と最後では右と左の体の感覚が全く違うということ、あんなにも違うものなのかと少し感動して、この授業に興味を持ちました。今はまだ分からなくても、1学期を終える頃、もう少し理解できるようになればいいな、体に対する感覚、受け止め方が少しでも変わればいいなあと思います」(K.J)

「普段の生活では全く意識していない感覚が冴えてくるような気がして、終わった後の自分の右半身と左半身のちがいに驚きました。呼吸をしておなかから息を吐くと広がっていく感覚がしてとても落ち着いていく感じがしました。右半身が左よりも暖かい感じがし、右目がぱっちりしているのに驚きました」(M.A)

「授業回数を重ねていくごとに何となく体に変化が起きているかもと思うようになってきました。木曜のこのPE(体育)の後は、5.6.7限の授業で、だいたい8pmぐらいまで延びるのですが、不思議と眠気がなく意識がしっかりしているのです。前夜はその授業の課題に追われ充分に睡眠時間をとっていないにも関わらずです」(I.A)

「最近気がついたら歩くのが楽になってきました。これは季節や天候とも関係してこのクラスのせいだけではないかもしれないけれど、すごく面白いです。周りのことも今までより目に入ってくることが多く、覚醒してきたような感じです」(K.A)

「初めのうちは周囲の人の動きが気になり、それに無理に自分を合わせたりしていましたが、やっていくうちに自分のペースでやればいいのだと分かりました。自分のペースでやってみると、少々きついと思われた動きでも楽にできるということに気づき驚きました。そのころから、いかに自分というものを知り理解することが大切かが少しずつ分かってきました。そして、自分のペースで呼吸し、動くことにより、心の安定も得られると思いました」(M.A)

「体にとって楽できもちのいい動きが一番いい動きだということは私にとって衝撃で、だったら今まで中学、高校の体育で、体は時々激しく少し無理なくらいの運動をしないとどんどん衰えてしまう、という考えに基づいて、皆が同じ距離(それは私にとってすごくきついものだった)を走らされたりしたのは何だったのだろうと考えてしまった」(F.M)

「今日は授業開始直後と授業後の違いを最も大きく感じた一日だった。最初に左手をかざして体をひねってその背景を覚えたときの場所と、授業の最後に見たときの場所が全然違った。驚きだった。最初は難しいと感じることも、部分部分で練習してうまく最後に組み合わせれば意外と簡単にできるのだろうと思った。それはエクササイズだけではなく、自分の夢とかゴールに対しても応用できる。そう感じた」(U.N)

「今日の授業は一言でいえば“発見”の授業でした。Self-discoveryとでも言えば良いのでしょうか。この部分を動かすには、この筋肉がどういう風に働いていて‥‥と、普段気にもとめずに呼吸していることを、意識して“息をする”ということに神経を集中させたときのあの不思議な感じ。左足にかかる力はやや外に向かっていて、右足にかかる力は内側に向かっている――こういう発見によって“私の体はこうだったんだ!”という新鮮な驚きを覚えました。自分にとって一番楽な方法を見つける。いつも頑張らなくてもいいようにする。こういうことは、運動といった限られたことだけにではなく、普段の生活にも応用できることだと思いました。これからの授業を楽しみにしています」(U.N)

「授業はなんだかとても神秘的な感じでした。‥‥授業中も授業の後も、自分の体が自分のものではないような感じでした。特に授業が終わった後は、頭がぼんやりしている一方で、信じられないくらい冴えていて、自分の脳(体を操っている部分)がいつもよりずっと高いところにある気がしました。こんなに不思議で気持ちよいPE(体育)は生まれてはじめてでした」(K.A)

「おどろきでした。右側にしか体を回さなかったのに、逆の左側によく回るのは説明がつきませんでした。右側へねじったときは、体の左側の筋は伸びていたので、それが原因かもしれないと思いますが、よく分かりません。とてもおもしろかったです。けどつかれました」(Y.Y)

「今までまったく知らなかったような体の使い方が、これほど機能性をもっていることに驚いた。これを開発した人はどのようにして発見したのだろうか?」(M.T)

「今回初めて体験したボディーワークは、音楽を聴いたり小説を読んだり映画をみたりするのとどこか似ているような気がした。うまく言えないが、それらに共通しているのは、(1)自分がその時に全身で感じた“何か”を誰かに伝えて共有したい気がする。一方で、(2)その“何か”を言葉で表現しようとするとものすごく大げさになったり陳腐になったりしがちで、自分の本当の感覚から離れていってしまうのではないかという不安とそうすることへの抵抗を感じ、自分の中だけで味わっておきたい気がする。という点かもしれない」(N.J)

まだまだ紹介したいものはありますが、紙面の都合でこれだけにとどめておきます。今あらためて1学期を振り返ってみて、素直に受容するものが予想以上に多かったことにむしろびっくりしています。役者志望の若ものたち相手のほうが、もっと苦労します。多分それは、自分の目指す方向について自己イメージが強く、逆にそれに縛られすぎているからかもしれません。しかし、余り性急に結論じみたことを言うのは控えて、これからの2・3学期の体験も含めて、いずれこの続きを報告できればと思っています。
                        (1999.06.20.記)  

第21号(1999/6/22発行)所載

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