出会いと発見 7

フェルデンクライス体験の多様性

 ―体験記第1集発行にあたって―

この度完成した『フェルデンクライス体験』第1集を読んだ方々から寄せられる感想の中でも、一番多いのは、同じフェルデンクライス・メソッドを体験したはずなのに、人によって実に様々で、感じ方、考え方、表現の仕方が千差万別であることに驚き感心する意見です。しかし、これこそフェルデンクライス・メソッドの特質からして当然のことだと思います。

この第1集には、お陰様で二十数名の体験記を収めることができたのですが、一人一人の体験がそれぞれに、かけがえのない人生を反映していることに感銘を受けました。今回編集をしながら、フェルデンクライス・メソッドが深くその人の「生」とかかわる働きをするものであること、体を通して心を揺り動かす力を持つものであることを再確認し、改めて私は「心をひらく体のレッスン」と名付けたことに間違いはなかったと思っています。

すでに書いたことがありますが、私も最初は、フェルデンクライス・メソッドをやれば、だれもが私と同じような体験をするはずだという思いこみがありました。同じことをやるのだから、当然ながら、同じことを体験するはずだと信じていたのです。自分の体験を至上とする、いわゆる体験主義です。このような態度は、お気づきでしょうが、いろんな分野にはびこっています。これがいかに観念的・主観的な態度かということは、どれだけ強調してもしすぎることはありません。そういう態度が全く不毛であることに気づかないかぎり、自分の体験を人に伝えることができません。私自身そのことに気づくまでには、多くの錯誤を乗り越えなくてはなりませんでした。

フェルデンクライス・メソッドは、人の内部に眠っている可能性をひらくための方法を教えてくれます。しかし、その「人」は、一人一人自分の顔を持ち、自分の人生の重荷を背負って具体的に生きているわけです。だから、同じことを体験しても、その学び方は人さまざまになのは当然のことなのです。

自分の体験にしても、どの角度から光を当てるかによって、見え方も様々です。自分の体験を絶対化しないための一番いい方法は、体験を言葉にしてみることです。別に書くことだけを言っているのではありません。レッスンを通して感じたこと、考えたこと、味わった感覚等を言葉にして、他の人とコミュニケーションを持つことです。体験をめぐってお喋りをするだけでも、相当に自分の体験を相対化することができます。

しかし、文章として書き留め、できればそれを他の人に見せて共有することは、とても重要な意味があります。それをすれば、自分の体験から改めて学ぶことができます。閉じられた体験から開かれた体験へ、これが言語化することから得られるもっとも貴重な贈り物です。できるだけ多くの人に『フェルデンクライス体験』第1集を読んでいただきたいと思います。またできるだけ早く、第2集へ向けて準備を始めたいと思います。

          
AWARENESS 第13号(1994/10/20発行)所載



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