出会いと発見 6

モーシェ・フェルデンクライスの著作について

 私がフェルデンクライス・メソッドに出会ったのは、1974年の終わり頃のことですから、かれこれ20年近く前になります。出会いと言っても、モーシェその人にではなく、彼の著作に出会っにすぎません。そのあたりの事情については、機関誌第3号に書きましたから重複を避けますが、一つの読書体験が人を大きく揺り動かすことは、一生のうちそれほど度々あることではないだろうと思います。
 私自身振り返ってみても、書物によって自分が大きく変えられたとはっきり思える体験は、片手の指で数えられるほどしかありませんが、モーシェ・フェルデンクライス(1904-1984)の著作
Awareness Through Movement(『フェルデンクライス身体訓練法』大和書房)を読んだことは、その中でも一二を争うぐらいの重みを持っているような気がしてなりません。
 それ以来、彼の著書を訳出することを義務のように自分に課し、今は4冊目の翻訳に取り掛かっているところです。そこで今回は、モーシェ・フェルデンクライスが残した著書について一通り紹介することにします。まず、全部のタイトルを発表順に上げると、次のようになります。

1. Body and Mature Behavior (1950)
2. Awareness Through Movement (1972)
3. The Case of Nora (1977)
4. The Elusive Obvious (1981)
5. The Master Moves (1984)
6 The Potent Self (1983)


これ以外に、柔道についての著作が3種ありますが、フェルデンクライス・メソッドと言われるようになったボディワークに関する著作は以上の6点で全てです。
 まず最初は、
1.Body and Mature Behavior(『身体と成熟した行動』)ですが、これには「不安、セックス、重力、そして学習についての研究」という副題がつけられています。
 フェルデンクライスは若いときにサッカーで膝に重傷を負い、あらゆる医療機関に見放された末、ついに独力でそれの治療に成功しました。それがフェルデンクライス・メソッドを生み出すもとになったことは、余りにも有名です。この本では、その過程での研究をもとに、人間の身体の動きと神経系の関係について、科学的な考察を展開したものです。この本を著した当時のフェルデンクライスは、まだ物理学の専門家として働いていました。学者としては、ジョリオ・キューリーの研究所で助手として働いたり、その後、第2次大戦中にはイギリスで潜水艦探知装置「ソナー」を開発したりと、その方面でもかなり注目される存在でした。
 心と身体が二つの別々のものではなく、神経系の働きの二つの側面であるということは、今日広く認められるようになってはきましたが、身体的な側面と性格との関係、筋肉運動や姿勢のパターンと心理的・精神的側面の相互関係については、まだ研究はきわめて不十分な状態にあるようです。フェルデンクライスのこの書物は、その問題に真正面から取り組んだ、先駆的な労作です。
 フェルデンクライスは、人間が動物の中でも二つの点でユニークな存在であるというところに着目します。その一つは、唯一直立歩行する動物だという点です。もう一つは、一人前になるまでに、親と社会から長期間にわたって学習しなければならないという点です。フェルデンクライスは、この二つの要因を詳しく分析し、姿勢や身体の動きと心理的・精神的な状態との深い関係を立証しています。
 生理学、神経学、心理学等の専門的な用語が頻出するので、決して読みやすくはありませんが、理知的・客観的な叙述からも、未知の分野を開拓しようとする情熱がひしひしと伝わってきます。フェルデンクライス・メソッドの土台を知るには、欠かすことのできない必読文献でしょう。
2. Awareness Through Movement は『フェルデンクライス身体訓練法』と題して約10年前に翻訳・出版しました。これはフェルデンクライスの最も広く読まれている著作で、1970年代の初頭に彼が初めてアメリカを訪れて開いたワークショップが元になっています。メソッドの実体を理論と実践の両面から周到に説いた名著と言っていいでしょう。私自身、この本を読みながら、時間をかけてレッスンを試みたのが、実質的には最初のフェルデンクライス体験でした。
3. The Case of Nora は『悩の迷路の冒険』として昨年翻訳・出版しました。脳血栓のため読み書きの能力と運動障害を失った一人の女性ノーラは、あらゆる医療機関から見放され、最後の手段としてフェルデンクライスの元にやってきます。この本では、ノーラが徐々に回復する過程を事実に沿って記述したものですが、成功と失敗を積み重ねながら、次第に事態の本質を発見してゆくプロセスは、まるで推理小説を読んでいるような興奮を与えてくれます。また、模索の過程で行われる理論的な考察はきわめて刺激的です。
4. The Elusive Obvious はフェルデンクライスが生前に完成した最後の著作です。タイトルは『この曖昧にして明瞭なるもの』というような意味になります。‡@の内容を引き継ぎ、その後の関連諸科学の先駆的な知見を参照しながら、メソッドの土台に新しい光を当てた著作で、まさに遺作と呼ぶに相応しい重要な作品です。フェルデンクライス・メソッドの発展過程についても詳しく述べられているので、実に興味深いものがあります。
5. The Master Moves 『心をひらく体のレッスン』は、アメリカのある農場で集中的に行われたワークショップの記録テープを元に、レッスンの模様を忠実に活字で再現したものです。収められているのは基本的な12種のレッスンです。エネルギッシュでユーモアに富んだモーシェのレッスンぶりが実際にどんなものであったかがよく分かります。それに、話し言葉で語られる理論的な考察は理解しやすいものがあります。
6. The Potent Self 4.と同じく、フェルデンクライスの死後に編纂発行されました。これは1949年に刊行された1.Body and Mature Behavior に前後して、一般読者を対象に啓蒙的に書かれた文章を集めたものです。内容は1.のそれにほぼ並行していますが、さらに詳しく具体的です。2.Awareness Through Movement の圧縮された表現スタイルに比べ、きわめて能弁に語っているので、これをよりよく理解するためにも是非読んでみるといいでしょう。
 以上、簡単に触れましたが、詳しくは訳書なり原書なりを読んでいただきたいと思います。フェルデンクライスのもの以外にも、最近かなりいろいろな文献が出るようになったようです。目にとまったものは、いずれ紹介したいと思います。また、その関係で何か新しい情報がありましたら、ご一報いただければ幸せです。(1992年6月記)

― フェルデンクライス研究会機関誌 AWARENESS No.8 所載 ―




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