ーー新潮社「波」1988年5月号ーー

身体の神話から身体の智恵へ

安 井 武   

 いま身体は数々の神話に覆われている。解剖学的身体から超能力的身体まで、日常の私的身体から仮面に覆われた社会的身体、さらには洗練された審美的身体まで、それらを隈なく拾い集めれば、身体神話のカタログは膨大なものになるだろう。身体観は、こまかくみれば各人各様で、存在する人間の数だけあるといっても過言ではない。
 ひとは一生涯、自分の身体を住処としながら、身体ほど自分を裏切るものはないことを思い知らされる。欲望に裏切られ、病に裏切られ、衰弱に裏切られる。そして最後に、身体が消滅する「死」によって己の願望は絶対的に裏切られる宿命にある。その宿命から逃れようとすることから、無数の身体神話が生み出されたとも言える。
 欲望を充足させ、病いから解放され、衰弱から自由になり、「死」を遠ざけたいという願望は、健康という幻想を追い求める。健康幻想は、われわれの身体にたいする底知れない不安の裏返しでもある。その幻想のもっとも直接的な形は、世に健康法と称して喧伝される様々のテクニックであろう。数々の健康法が隆盛をきわめることは、ひとが己の身体の暗闇に対していかに深い不安を抱いているかの証拠でもある。
 身体は暗闇であり、言葉によって照らしだされるのはその浅い表層のみであり、その下には果てしない奈落が潜んでいる。譬えてみれば、言葉は目の粗い魚網であり、網目をすり抜けるものは無数にあると言っていい。身体には、そのこぼれ落ちるものを無限にすくいとる力が本来そなわっている。かつて言語は身体に強い根拠をもっていたにちがいない。その証拠に、豊かな「からだことば」の遺産が、各国の言語に今も名残をとどめている。ひとは言葉によってしかものを考えられないが、言葉は時代とともに洗練されて自律した体系となるにつれ、身体との回路はしだいに複雑な迷路と化してしまった。われわれがより深い認識を得るには、「身体の知恵」を豊かにし、この失われた回路の回復を企てなくてはならない。
 健康幻想の中でもいちばん厄介なものに、身体は鍛えなくてはならないものだという根強い強迫観念がある。機械的により多く、より激しく繰り返す訓練が身体の能力を高めると信じられている。テレビの映像で賛美されるプロ野球の地獄の特訓風景などは、そのもっともグロテスクな実例である。そういう方法は、言葉への回路を断ち切られた身体の能力をあるいは高めることはできるかもしれない。しかし、それはロボットとしての能力でしかなく、人間的な能力だとは言えない。
 このたび訳出した『心をひらく体のレッスン』は、フェルデンクライスが実際に行ったレッスンの記録そのものであるが、これには数々の錯誤を解く鍵が隠されている。鍛えるのではなく、いかにして身体に知恵をつけるかが一貫して追求されている。

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