潜在的可能性の実現に向かって
  — フェルデンクライス・メソッド —

— ベースボールマガジン社「Human Body」No.2 1988年9月号—

その理念

 ひとはだれしも無限の可能性をもってこの世に生をうける。だが、成人した人間はその一部しか実現していない。平均して数パーセントだと言われる。生まれたときに授かっていた可能性は、もはや失われてしまったのであろうか。いや、そうではなく、それは潜在的な能力として、各人の内部で深い眠りについているにすぎない。では、それを揺り醒ます方法はないのだろうか。
 古来より、自己開発の方法は数々発案されたが、フェルデンクライスの方法は、分かりやすい合理的な理論と行き届いた精緻な技法でもって傑出している。そこには神秘的な要素はかけらもないが、今まで気づくことのなかった驚くべき世界へ、われわれの通常の日常感覚でもって自然に入ってゆくことができる。

1.無限の可能性
 われわれはみな、譬えてみれば内部に新鮮な水を蓄えた深い井戸をもっている。しかし、ほとんどのひとはその井戸の蓋を閉じて、そこから水を汲み上げる方法を知らず、井戸の存在すら忘れ果てている。フェルデンクライス・メソッドは、その固く閉ざされた蓋を取り除く方法を教えてくれる。これを用いれば、いつでも井戸の蓋を開き、己の内部から自然に沸き出してくる新鮮な水をいくらでも汲み出すことができるようになる。しかもその水は涸れることが決してない。

2.自然な学習過程
 この世に生を受けた人間はだれに強制されることなく自然に学びながら成長してゆく。幼い子供の無理のない学習方法は、大人がいつしか捨て去った貴重な宝の宝庫である。子供は義務感を持つことがないから、あらゆることを楽しみながら学んでゆく。自分にとって快いものだけを選択し、それを楽々と身につけてゆく。こういうやり方こそ、持てる能力を全面的に開花させるのにもっとも相応しい方法であろう。フェルデンクライスはこのことに着目して、独自の柔らかくしなやかな方法を生み出したのである。決して頑張る必要はなく、メソッドに導かれてレッスンを続ければ、眠っていた可能性が自ずと目覚めてくる。

3.習慣の檻
 ひとは普通、成人するにつれ、特定の仕事の分野に深く関わらざるを得なくなり、それに無関係な事柄についての関心と能力はしだいに弱くなる。幼年期にあった無限の広がりをもっていた世界は、それに応じて狭まり、ますます己の限定された小世界に埋没することになる。そして、固く窮屈な自己イメージの中に己を閉じ込める結果となる。それは強固は鎧のごとくひとを縛りつける。その鎧を脱ぎ捨てることなしに自己実現の道はありえない。習慣という檻に閉じ込められた小鳥は、鳥籠の中の自由を捨てて、大空を羽ばたく自由を知らねばならない。

4.癖と個性の違い
 癖と個性を混同してはならない。癖というものは、歪んだ習慣であり、不自然な行動様式である。無くて七癖というとおり、己の癖にはなかなか気がつかない。逆に、気がつかないから癖というものがあるのであろう。だが、癖は自分で気がつかないかぎり、決して直るものではない。癖という歪んだ習慣を手放し、本来そなわっていた自然な行動様式を取り戻したときに初めてそのひとの個性が姿を現し、光り輝きはじめる。

5.動きからのアプローチ
 太古から現代までに開発された自己実現の方法は数え切れない。呼吸を改善することでよりよき自己を実現する方法だけでも、無数にある。それ以外にも、人間の心理面からアプローチするもの、感覚的な側面からのもの、思考能力の改善によってより高い能力を身につけようとするものなど、枚挙にいとまがない。
 しかし、からだの動き、つまり運動の側面からアプローチする方向は、もっとも確かな手掛かりに満ちている。からだの動きは、そのひとのあらゆるものを具体的に反映している。例えば、人間の潜在的可能性という隠された部屋があるとして、その部屋に通ずるに、思考、心理、感覚、そして運動と、四つの扉があるとしよう。どの扉から入ろうとも、中の部屋は一つである。他の三つに比べて、からだの動きの体験はもっも豊かであり、それを意識で捉えることがもっとも容易である。

レッスンの方法

 レッスンは、単純なからだの動きを繰り返すだけのものだが、これは決して単なる肉体訓練や体操のたぐいではない。組織的に組み立てられた動きによってからだの感覚を呼び覚まし、さらにそれを深めることによって意識を拡大し、からだの機能を有機的に全体として調整し、身体的にも、心理的にも、精神的にも、あらゆる人間の活動を活性化する。 したがってこれは、どのような分野のひとにも仕事や生活の面でよりよく生きる力をさずけてくれる自己実現の訓練法となる。ひじょうにわかりやすい実際的なレッスンなので、子供から老人まで、どのような年齢・職業のひとでも用いることができる。
 フェルデンクライス・メソッドの効果は、医学的にも実証されているとおり驚くべきもので、ごく短期間に生命力と創造力が自分の中で高められるのに気づくようになる。そのため、一般のストレス解消をはじめ、スポーツ関係、芸術分野、学者科学者の創造性開発から、さらにはさまざまの心身症や脳障害、心理療法などに応用されている。
 ひとつのレッスンは、ひとつのテーマのもとに組み立てられており、およそ十数個のヴァリエーションから成り立ってる。ある複合された動きをできるだけ単純な構成要素に分解し、その中のいちばんやさしい動きからはじめて、しだいに別の動きを付け加えてゆき、最後に全部を含めた複雑な動きができるようにして、全身の調整をおこなう。ひとつのレッスンは平均して一時間前後かかるが、フェルデンクライスがこのようなレッスンをいったい何千種類考案したのか、正確なところはだれにもわからないと言われている。 このメソッドは、従来の体操や身体訓練とは大いに異なった方法がとられる。むしろ全く逆のアプローチが特色だと言ってもいい。その主な特徴をかいつまんで説明しよう。

1.結果よりもプロセスを!
 レッスンでは、言葉によって動きが説明されるだけで、指導者は決して模範を示さない。指導者の言葉を自分の身体感覚に結びつけて各自は自分で指示される動きを発見してゆかねばならない。だから、動きを実行することよりも、その動きをどのように実現するかに注意を集中することになる。動きそのものよりも、それをおこなう方法が重視されるのである。

2.最小のエネルギーで最大の効果を!
 われわれはふだん頑張ることが美徳だと思いこんでおり、なにかにつけ、無意識のうちに不必要な力を込めないと満足できなくなっている。このレッスンでは、動きのプロセスに意識を集中することによって、身体感覚の微妙な差異に気づくことが強調される。その場合、無駄なエネルギーをいかに取り除き、できるだけ少ない力を効果的に使用しなくてはならない。当然、動きは小さくゆっくりしたものになる。

3.機械的繰り返しは無意味だ!
 反復神話は世にはびこっている。学校での学習から特殊な技能の習得にいたるまで、機械的な繰り返しが向上の秘訣だと信じられている。プロ野球の地獄の特訓風景などは、グロテスクな実例の最たるものである。このレッスンでは、機械的な反復は無意味であるとして同じ内容を繰り返すことはない。そのため、つねに新しい課題に直面し、自ら道を発見してゆくことが求められるが、そこで体験する試行錯誤こそがレッスンの大切な要素なのだ。フェルデンクライスのスタジオに一年間通ったとしても、同一のレッスンを二度うけることは決してなかったという。

4.イメージの重要性
 殆どからだを動かさないで、イメージだけで進行するレッスンもあるが、どのような場合にも、動きのイメージを明確にすることも重要な要素である。実際の動きと同じ感覚を想像力の中でリアルに再現し、動きの流れを忠実にたどる。完全にイメージのできる動きは実際にもできるが、その逆も真なりである。また、からだの右側で実際の動きをおこない、左側ではイメージ練習だけにとどめて効果を比較する方法も用いられる。

 フェルデンクライス・メソッドは、からだの動きをとおして人間の神経系に働きかける方法である。不自然な動きは神経系の歪みの反映であり、それは心の歪みの現れでもある。中枢神経系に変化が起こらなくては、習慣によって形成された歪みを取り除くことはできない。フェルデンクライスの方法は、神経回路に直接働きかけることによって、歪んだパターンを解体し、有機的な自然を回復させる。ディストリビュータの微調整が車の走りを驚くほど改良するように、それは想像以上の結果をもたらす。
 あくまでも神秘主義的傾向を排したそのアプローチは宗教的な境地とは無縁であるが、レッスンの体験が深まってくると、身体的な変化だけではなく、心理的さらには精神的な変化をも味わうようになる。パーソナリティと呼ばれ、不変のものと思われていた自分の人となりが、きわめて短期間に変貌するのを経験して驚くことになるだろう。
 その意味で、このメソッドは現代の身体論の領域でもっともラジカルな地平を開拓したものと言える。レッスンごとに深まってゆく身体意識の深化はまさに劇的なものであり、これは実際に体験してみれば、だれでも感じとることができる。

 【参考情報】
☆モーシェ・フェルデンクライス(1904-1984)☆
  ポーランド東部のユダヤ人の家庭に生まれ、十四歳のとき単身イスラエルへ移住。その後パリのソルボンヌ大学で物理学を学び博士号を取得し、ジョリオ・キューリーの研究所に勤務。嘉納治五郎から柔道を学び黒帯となり、ヨーロッパで最初の柔道クラブ(後のフランス柔道連盟)を創始、第二次大戦中はイギリスに逃れ、戦後イスラエルに帰国して国防軍の電子部門の責任者を勤める。早くからヨーガ、フロイト、パブロフ、神経生理学を深く研究し、東洋の身体メソッドを求めて来日したこともある。
 フェルデンクライス・メソッドの基礎はすでに四十年代に形づくられていたが、本格的に注目されだしたのは最近のことであり、欧米で一般に普及しはじめたのは七十年代の後半からである。

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