[フェルデンクライス研究会資料]
  == 日本実業出版社刊/斎藤茂太監修『こころの技術』(1988年)所
収 ==

こころとからだの深いつながり

― モーシェ・フェルデンクライスのからだのレッスン ―

 私たちはなにげなく「こころ」とか「からだ」という言葉を使っているが、その場合のイメージは人によってずいぶん違うようである。私はその方面の専門家ではないので、こころの正体はなにかという面倒な問題はその道の大家にお任せするとして、もう少し現象的な側面から問題に接近し、そこから、いま私が関心を抱いている「こころの技術」ーフェルデンクライス・メソッドーについて述べてみるとしよう。

眠っている能力

●こころとからだ こころというきわめて得体の知れないものに、どうアプローチすればいいかとなると、なかなかむずかしい。こころは、つねに動いていて、たえず形を変える。つかまえたと思った瞬間、それはもう別のものに姿を変えて手元からすり抜けている。こころは、自分の意識でつかまえて、手なずけることはおよそ不可能なもののようである。なにかいい手掛かりはないものか。そこで思いつくのは、こころとからだの関係である。私たちは、普通はからだの働きとこころの動きとを同時に体験するが、時には、日常生活の次元でも、自分をこころとして意識することとからだとして意識することの矛盾に引き裂かれることが少なくない。「からだがいうことをきかない」とか、「気持ちがついていかない」という状態はだれしも味わうことである。しかしながら、からだがなければこころもないのであり、こころはからだという器の中にしか宿ることはできない。人間における脳の高度な発達が、こころという精神的な働きを可能にしたことは、神経生理学の研究をまつまでもなく明らである。けれども、こころはからだの働きの高度なものであると言ってすますことはできない。人間は自分が考えていることを考えることができる。こころは一見からだから離れて自律した働きをすることができるようである。しかし、からだが亡んでしまえば、こころの働きもなくなるのであるから、こころは深い無意識の底でからだに支えられていることには変わりない。精神的なストレスが心身症として身体的な疾患を生み出すように、一見無関係だと思われていた現象が、こころとからだの深いつながりを明らかにする。こころとからだがいがみ合って起こる不都合や障害のさまざまの例は、ますますこころとからだの深い関係を示している。また逆に、幸運にもこころとからだが一つになって働くときには、人は想像以上の能力を発揮することができる。

●《火事場の馬鹿力》ー人間の潜在能力ー 「火事場の馬鹿力」という言葉がある。火事に見舞われて、普段にはとても抱えられそうもないタンスを一人で外へ持ち出していたなどという話があるが、人間は、いざとなると常識では考えられない能力を発揮するのはよくあることである。危険に襲われて高いところから飛び下りた後で、そこを見上げてぞっとするということなどもある。これなどは、こころがからだと一つになって思わぬ能力を発揮する幸運な実例であろう。しかし、その逆に不運な例もある。びっくりして「腰を抜かす」ということがあるように、危険を前にして一種の麻痺状態になり、全く行動できない状態に陥ることもある。そういう極端な状態ではなくても、いざとなったら普段の能力さえ発揮できず、惨めな敗北感を味わったことのない人はほとんどいないだろう。俗に言う「人前であがる」という現象などもそれである。うまくやらなければという気持ちが、成功しなかった場合の不安を呼び起こし、それが逆にプレッシャーになって自分の行動を狂わすのである。この幸運な場合と不運な場合は、いずれもこころとからだの強いつながりを示していると言える。けれども、緊急事態になると、思わぬ力を発揮できるというのは、人間の内部には、ふだん眠っている能力があるという証拠でもある。このふだん眠っている能力のことを潜在能力というが、それがどの程度のものかは推測の域を越えている。とはいえ、人間の中枢神経系の機能のうち、現実に活用されている部分は、平均して数パーセントでしかないと言われている。単純な計算だが、人間が本来もっているはずの能力の九割以上は眠っていると言っても過言ではないだろう。

●人間の高度な学習能力 人間のこころの進化は神経系の進化の反映である。例えば、もっとも人間に近い部類に入るチンパンジーにしても、その脳は生まれたときに三百五十グラムぐらいで、成長しても四百五十グラムくらいにしかならないが、人間の場合、生まれたときには同じく三百五十グラムくらいであるが、それからものすごい速さで成長し、大人の人間の脳の重さはおよそ千五百から二千グラム近くになる。人間の複雑な精神活動を可能にしているものは、この高度に発達した神経系の仕組みと働きなのである。人間の脳の仕組みそのものは人によってそれほどの違いはない。解剖学的な構造は全く変わらない。それどころか、その基本的な構造には他の動物の脳とも共通している部分が無数にある。にもかかわらず、現実に身体的能力も精神的能力も人ざまざまである。そのような違いが生み出される要因は、人間の成長過程の特異性にある。生まれてからの長い長い成長過程で、神経系の高度な組織化がおこなわれるからである。そしてこれは死にいたるまでつづく。その場合、他の動物ともある意味で共通している脳の古い部分はほとんど変化をしない。成長発達するのは、主に脳の表層をなす新皮質と呼ばれている部分である。この部分の仕組みが、人間を他の動物から区別する能力に深く関係しているのである。すなわち、人間の場合は、先天的に受け継いだものよりも、後天的に習得するものが、他の動物に比べて格段の重要性をもっている。一言でいえば、人間の一生は長い学習の過程である。他の動物も学習はするが、人間のおこなう学習の量に比べれば、殆どなきに等しいということができる。ここで言う学習とは、決して学校での勉強や学問上の学習ではない。それは、人間が人間存在になるための学習、人間的な能力を身につけるための学習のことである。だからこそ、私たちは生まれてから今まで、どういう学習をおこなってきたかによって、それぞれ違った人間に成長するのである。過去の個人的な体験の質が、それぞれの違いを生み出すわけである。


からだの知恵

●頑張ることの弊害 人間の成長過程のなかでも、特に幼児期の学習速度には驚くべきものである。脳の発達過程を見ても、幼児期の数年間に、人間の脳はその後の期間とは比較にならないぐらいの速さで成長する。だから、この時期の個人的な体験はその後の人生にとって決定的な重要性をもっている。幼児期の学習の一般的な特徴はその自発性である。欲求に応じて自然に習得してゆくだけで、他から強制されることも目的を課して自分を駆り立てることもなく、楽しみながら易々と必要な能力を身につける。この自然な過程がその後も続くならば、その人の能力も自然に大きく花開くであろう。ところが、現代の社会に生きる人間は、幼児期をすぎてさらに成長するにつれ、より専門的な領域に踏み込んでゆかなくてはならなくなる。すると、自分で特定の目的をたてたり、両親や教師や自分自身によって、後にはさらに先輩や組織によって強制されたりするので、学び方は次第に初めの自然さを失ってくる。それは自発的な学習ではなくなり、大抵の場合、「しなくてはならない」ものに変わってくる。そうすると、幼児期にもっていた無限の広がりをもっていた世界は、当然のことながら狭まってしまう。歌ったり踊ったりすることが好きだった子供も、大人になると、いつの間にかそういう才能をもっていたことすら忘れてしまっている。現代の社会では、大抵の場合、自分の持っている能力を特定の分野のものだけに限定し、それ以外の能力は未発達のまま捨てておかれ、錆びつくままに忘れられてしまうことになる。自然な欲求によってではなく、義務感に駆り立てられた行動を強迫的な行動というが、それは往々にして、自然に逆らった行動となる。本当にはしたくないのにしなくてはならないことというのは、自分の中でそれに逆らうものを押し殺し、意思の力を動員して実行しなくてはならなくなる。自分の内部に対立する動機を抱えているわけだから、実行には無理な努力が必要になる。それを平たく言えば頑張りとなる。私たちの社会では、「頑張れ!」「頑張ろう!」という言葉が、子供にも大人にも、繰り返し交わされる。頑張ることが美徳とされ、頑張れない人間は価値がないと思われている。頑張らなくては実現できないことというのは、自分の自然な欲求に反したことなのである。頼りになるのは意思の力だけというわけである。つまり、目的に縛られているから頑張ることしかできなくなるのである。結果が全てだというわけだ。「頑張る」とは、自然に逆らうこと、つまり無理をすることである。意思の力を動員して、自然の流れに抗して目的を実現しようとすることである。そういうやり方で、確かに、大きな仕事をなし遂げることも、あるいはできるかもしれない。しかし、そのために支払う犠牲は想像以上に大きいものになる。癖というものがあるが、それは、そういう不自然な行動が習慣になることから生じる。癖と個性は ものである。癖がなくなったときにはじめてその人の個性が輝くのである。癖は歪んだ習慣であり、不自然な行動様式である。無くて七癖というとおり、自分の癖にはなかなか気がつかないものだが、しかし、癖は自分で気がつかないかぎり、決して直るものではない。

●自然な学び方とは この悪循環から逃れるにはどうすればいいか。幼児期の自然な学習過程を振り返ってみよう。幼児は目的を定めてそれに向かって突き進むということはせず、自然な欲求にしがたがって、気の向くままにいろいろなことを試みているうちに、いつの間にかなにかを実現してしまう。
 歩くこと一つを取り上げてみても、うつ伏せになって頭をちあげ持ち上げることから始まり、それから手足を支えにして這うことを覚え、やがて両足の上に自分の体重を乗せることを学び、ついに片足ずつでバランスをとりながら移動することを習得する。この一連の過程を見ていると、全く無理というものがない。
 確かに何度も失敗を重ねる。しかし、幼児はその繰り返される失敗そのものを楽しんでさえいるかのように見える。そして、失敗するたびにそこから学んで少しずつ自分のやり方を改善してゆき、ついに立ち上がって歩き始める。歩くことが目的だったように見えるが、それは後から見ての話であって、一つ一つのプロセスは、まるで目的のない遊びのように見える。むしろプロセスそのものをさまざまのやり方で楽しんでいるうちに、自然に歩くという能力を身につけているのである。歩くことだけでなく、幼児の自然な学習はほとんどすべてこういうやり方でおこなわれる。
 ここから大人にとっても大切なことを教わることができる。重要なのは、結果ではなくて、そこへたどりつくまでのプロセスなのである。その過程には、多くの試行錯誤がつきまとうのは当然だが、失敗は成功の母のたとえもあるように、さまざまのやり方を試み、その違いの中からよりよいやり方を見つけてゆくという方法をとる。
 しかし、幼児とても全て幸運ばかりではない。例えば、充分に這う動きの能力が備わっていない幼児に、親が歩行器具などをあてがって、歩くことを強制することがある。股関節の可動性や脚の筋肉が充分に発達していないから、たとえ他の子供より早く歩くことができるようになっても、その後の運動能力には致命的な欠陥が残る場合が多い。これは自然な成長過程を妨げることである。持っている能力以上のことを課されてそれを実現しようとするから、無理をし、頑張らなくてはならないことになる。これは、身体的なことだけではなく、精神的な能力に関しても同じである。
 要するに、私たちが自分の能力をより改善するためには、どういうやり方で学習するかという、その「方法」を改善することが必要なのである。自分のいま持っている能力の限界を正しく知り、そのさまざまの癖や特徴をよく把握しなくてはならない。そして、自然な過程を妨げないような方法で改善に着手する必要がある。

●人間の能力の四つの要素
 すでにみてきたように、人間の能力をからだとこころに分けて考えることはできない。なにかを感じとることも、なにかの感情を体験することも、ものを考えることも、からだを動かすことも、こころとからだの両方が働らかないことにはありえない。
 人間のもつ能力を一応分類すれば、感覚、感情、思考、運動というこの四つの基本的な要素をあげることができる。感覚には、いわゆる五感のほかに、痛覚、空間感覚、時間感覚、リズム感覚などがある。感情には、すぐ思いつく喜怒哀楽だけではなく、自尊心、劣等感、霊感など、さまざまの感情の動きが含まれる。思考とは、知性のあらゆる働きのことであって、左右の認識、善悪・正否の判断、物事を理解し、それを理解していることを知ること、物事を分類し、法則を認識し、想像力を働かせること、知覚したり感じたりしたことを認識すること、そういう全てを記憶し、思い出すことなどがある。運動には、外面的なからだの動きだけではなく、呼吸、飲食、言語行動、血液循環、消化活動など、身体内部の働きもすべて含まれる。 ただしかし、このように分類はしてみても、それぞれの要素を他の要素と切り離すことは、言葉の上だけで可能なことであって、実際には、どんな場合にも、全ての要素が相互に作用しあっているのである。
 ものを考えるにしても、からだの内部は働いているし、対象に応じてそれに関係する感覚や感情を抜きにしてはありえないし、ときにはからだを動かすことも必要になる。どんなときにも、生きて意識が働いているかぎり、人間の能力の四つの基本的な要素は全て動員されている。ということは、逆に一つの要素の働きを変えると、他の要素にも影響が現れるということになり、その結果はその人の能力全体におよぶことになる。

●運動はいちばん開けやすいドアである
 したがって、自己を変えるために、以上の四つの要素のうちのどれから手をつけても、他の要素に影響がおよぶことは言うまでもない。それはちょうど、四つのドアをもつ部屋があるとして、どのドアを開けてその部屋に入るかということにたとえることもできる。どのドアを開けても内側は一つの同じ部屋なのである。
 その場合、どのドアを開けて入るのがいちばん効率がいいかということになる。私たちの経験に照らしてみれば明らかなように、感覚、感情、思考、そして運動という四つのドアのうち、運動は他の三つに比べていちばん開けやすいドアである。人間の神経系の中で、運動の占める位置はひじょうに大きく、これなしには、感覚も感情も思考もありえない。からだの動きの体験はきわめて豊かであるから、運動は、感覚・感情・思考よりも意識によってとらえやすく、したがって、はるかにコントロールもしやすいのである。
 運動とは、重力に抗して、自分のからだを保持し、状況に応じて身体各部の時間的・空間的配置を微妙に調整する働きである。その調整は、全身の筋肉活動によっておこなわれる。そして、運動には、大きく分けて二種類がある。一つは意識によってコントロールできない運動であって、心臓の鼓動とか腸の蠕動運動などは、意識で左右することはできない。それに対して、手を上げたり、足を動かして歩いたりすることは、意識でコントロールすることができる。これから問題にしようとするのは、主にこの種類の運動能力のことである。
 人間のあらゆる行動は筋肉活動から生まれる。見ること、話すこと、さらに聞くことすらそうである。筋肉の活動は、神経系から送られる連続したインパルス(信号)の結果である。したがって、姿勢の特徴や歩き方、表情や声の調子などは、その人の神経系の活動状態の反映である。だから、筋肉の運動という場合、それは実際には筋肉を活動させる神経系の信号のことを指しているのである。つまり、行動や動きを改善するには、神経系に変化が生まれなくてはならないということになる。
 そうすると、能力を改善するために運動というドアから手をつける場合には、当然、私たちの神経系の状態に直接効果的に働きかける方法がとられなければならない。それによって運動皮質のプログラムを改良すると、習慣によって固定化した運動パターンは急激に変化することになる。すると、新しい身体感覚の芽生えとともに、今までの意識の土台は崩れ去り、その結果、感覚や感情や思考も、それまでのパターンから開放されて、自由な展開が可能になるのである。モーシェ・フェルデンクライス(1904〜1982年)はこのことに着目して、独特のメソッドを生み出した。


こころをひらくからだのレッスン ーフェルデンクライスの方法ー
●からだのメソッド
 昔から、こころとからだの関係に気づき、からだの面からこころを変えようとする方法はいろいろ試みられてきた。その種類は数え切れないぐらいある。
 古くはインドのヨーガ、中国の気攻法などが代表的なものであるが、現代になってもいろいろある。日本だけをとっても、整体、操体法、野口体操など、割合身近に見聞するものがたくさんある。外国でも、古来の手法を受け継いだものから、人間の科学的な分析から出発したものなど、数多くある。自律訓練法、バイオフィードバック、生体エネルギー法、アレクサンダー・テクニックなどが知られている。
 私事にわたって恐縮だが、私は演劇の仕事をしているので、人間のこころの働きとからだの動きには、ことのほか関心を抱いて研究してきた。俳優のこころの動きがどういうからだの状態になって外へ現れるか、また、からだの姿勢や動きがどういうこころの状態を生み出すのか、という問題には、否応なく直面させられてきた。
 はじめて俳優学校の門をくぐって入ってくる役者の卵たちは、みなそれぞれ特有の癖をもっている。それは千差万別だが、彼らはそれを個性だと勘違いしていることが多い。しかし本当は、そういう癖によって彼らの個性は外へ出ることを妨げられているのである。癖を取り除かないかぎり、彼らの持っている個性は輝いてこない。そこで癖を取り除く作業から始めるわけだが、その場合、特にからだの動きの癖(しゃべりかたを含めての)に気づかせ、それを取り除く作業をおこない、自然なからだの動きを回復することが、自然で独創的な表現力を手に入れるもっとも早い近道となるのである。
 その場合、先に上げたようないろんな手法を取り入れてみたが、とりわけモーシェ・フェルデンクライスの方法が、今の私にはいちばん効果があるように思える。

●フェルデンクライスのからだのレッスン
 フェルデンクライスはイスラエルの人で、パリのソルボンヌ大学で物理と数学を学び、物理学の博士号を受け、ジョリオ・キューリーの研究所にも勤めた科学者であるが、若い頃にサッカーで膝に重傷を負った。あらゆる医学的療法から見放されたので、独力でそれの治療を目指して成功した。そのときの研究と体験の中から、科学的な理論に裏付けられた奇蹟的とも言えるからだのメソッドをつくりあげた。
 彼のメソッドには、二つの側面がある。その一つは《機能的統合》と呼ばれ、治療法としての要素が強い。主として、小児麻痺や失語症などの障害度の重い人を相手におこなわれる。もう一つは、《動きによる気づき》と言われる方法である。この二つは、具体的な方法は異なるけれども、根底にある認識と理論には共通のものがある。ここでは、後者について述べてみよう。
 私はそれをとりあえず「こころをひらくからだのレッスン」と名付けている。レッスンは、単純なからだの動きを繰り返すだけのものである。汗もかかなければ、痛みも伴わない。しかも、ほとんど老弱男女だれにでもできるような感じのする簡単な動きによって組み立てられている。しかし、このレッスンを積み重ねていくと、いつの間にか、自分で気がつかないうちに、こころとからだが一つのものとしてひらかれ、眠っていた能力が開花してくる。
 このレッスンは、従来のからだの訓練法や体操などとは大いに異なる手法がとられる。むしろ、全く逆のアプローチが特色だと言ってもいいぐらいである。以下にその特徴をかいつまんで説明しよう。

1:レッスンの組立て 一つのレッスンは一つのテーマに基づいて組み立てられており、だいたい一時間ぐらいかけておこなわれる。テーマというのは、いくつかの動きの要素が複合されたもので、そこにはからだの動きの重要な機能が含まれている。
 テーマとなる動きは、それを構成する基本的な動きに分解され、より単純な十数個のバリエーションに分けられる。レッスンは、そのいちばん単純な動きのバリエーションからはじまる。一つ一つのバリエーションは、十数回から二十数回繰り返される。一つの動きの繰り返しが終わると、必ずしばらく休息して動きの結果生じた変化を味わう。それから次のバリエーションにすすむ。こうやって、一つ一つの動きのバリエーションを丁寧に繰り返し、変化を味わいながら進行するのだが、単純な動きは徐々に組み合わされて、しだいに複雑な動きになっていく。
 そして、最後のバリエーションに到達すると、ちょうどジグソーパズルの最後の一片が嵌め込まれたときのように、それまで積み重ねてきた個々の動きは、計算しつくされた構造の要素としてピタリとおさまる。いきなり試みようとしても不可能だと思われるようなからだ動きが、一時間前後のレッスンの最後には、楽々と実現できるようになって驚くことになる。

2:形よりも質、結果よりもプロセスを! まず第一の特徴だが、このレッスンの間、指導者は決して動きの実例をみなの前で示さない。言葉で動きを説明するだけである。レッスン参加者は、その言葉の説明にしたがって自分で動きを見つけていかねばならない。
 模範的な動きを見せられると、その動きの外形を真似することになりがちで、その動きを生み出すからだの各部の配置や力のコントロールに対する内部の感覚はおろそかになってしまう。
 しかし、言葉の説明を聞いて、自分で動きを発見する場合には、頼りになるのは自分自身だけだから、どういうやり方でその動きを実現するかというプロセスに注意が集中される。形よりも質を重視することになる。

3:機械的繰り返しは無意味! 反復神話は世にはびこっている。学業から特殊な技能の習得にいたるまで、機械的な繰り返しが上達の秘訣だと信じられている。テレビ画面で賛美されるプロ野球の地獄の特訓風景などは、グロテスクな実例の最たるものだ。
 フェルデンクライスの方法では、機械的な反復は意味がないとして、同じレッスンが繰り返されることはない。一度通った道はすでに知っているわけだから、新しい発見には出会えない。初めての道は、確かに間違うことも多いが、失敗は成功の母というとおり、貴重な発見に満ちている。フェルデンクライスが考案したレッスンの種類は数千個はあるだろうと言われ、彼のレッスンに一年間通ったとしても、同じレッスンを二度体験することは決してなかったという。

4:最小のエネルギーで最大の効果を! レッスンでは、決して無理な動きはしないこと、力はできるだけ節約することが何度も強調される。どのような動きも、自分で楽に快くできる範囲にとどめることが大切だとされる。
 私たちは、ふだんから頑張ることが美徳だと思い込まされているから、なにかにつけ、無意識のうちに必要以上の力をこめて目的を実現しようとする性向がある。それは、目的さえ実現できればよく、それを実現するためのプロセス・方法はどうでもいいというやり方である。結果が全てだというわけである。
 しかし、よい結果を出すためには、そこへいたる方法を改善することがいちばんの近道である。そのことを忘れて結果だけを出そうとすると、頑張ることしか手はなくなり、自分がいまもっている能力以上のものを発揮しようとして無理をする。無理を重ねれば、当然さまざまの障害を引き起こすことになるのは自明の理である。
 方法を改善するためには、いろいろなやり方を試みて、それぞれの違いを識別し、よりよい方法を選択しなくてはならない。力をこめて頑張った場合、微妙な違いをとらえることはできないから、選択する余地がなくなる。動きのわずかな違いを発見して、よりよい行き方を発見していくことが、このレッスンの本質であるから、エネルギーの節約はもっとも重要なことである。

5:イメージの重要性 ほとんどからだを動かさないで、イメージだけで進行するレッスンもあるが、どんな場合にも、動きのイメージをはっきりさせることはきわめて大切である。最近、スポーツの分野でも、イメージ・ゴルフとかイメージ・テニスなど、ハードなトレーニングに代わるソフトな方法として、イメージトレーニングが重要視されるようになった。これは、実際の動きと同じ感覚を想像力の中で再現し、動きの流れをリアルにたどる方法である。完全にイメージでたどることのできる動きは、実際にもおこなうことができるが、イメージのあやふやな動きは実際にもうまくできないものである。
 フェルデンクライスのレッスンでは、からだの右側でおこなった一連の動きを左側ではイメージだけでおこなう方法がしばしば用いられる。そうすると、驚くべきことには、実際の動きをおこなった右側よりも、イメージだけの左側のほうが短時間でより大きな変化が起こるのである。それにまた、指示された動きをおこなう場合、すぐに始めようとせずに、動きのイメージをはっきりつかんでからおこなうようにすることも大切なことである。そういう練習を重ねていけば、実際の動きをしなくても、イメージ練習だけで大きな効果をあげることができるようになる。
 こういう練習を積み重ねていけば、単に身体的な面だけでなく、精神的な側面にも大きな影響がおよび、こころのの能力はしだいに花開くようになる。

●からだを変えればこころも変わる
 すでに述べたように、フェルデンクライス・メソッドは、からだの動きをとおして人間の神経系に働きかける方法である。不自然な動きは神経系の歪みの反映であり、それはこころの歪みの現れでもある。フェルデンクライスの方法は、神経系に働きかけることによって、習慣によって形づくられた歪みを解体して取り除き、有機的な自然を取り戻し、眠っていた能力を実現させてくれる。車の場合にも、ディストリビュータを微調整することによって、その走りっぷりが見違えるほどよくなるように、それは驚くべき効果をあげることができる。
 私たちは、だれでも内部に新鮮な水を蓄えた深い井戸をもっている。しかし、ほとんどの人は、その井戸に蓋をしてしまって、そこから水を汲み上げる方法を忘れてしまっている。フェルデンクライス・メソッドは、言ってみれば、その井戸の蓋を開ける方法を教えてくれるのである。この方法を活用すれば、必要とあればいつでも井戸の蓋を開けて、中からこんこんと沸き出す新鮮な水を、どんどん汲み出すことができるようになる。しかも、その水は決して涸れることはない。レッスンの直接的な効果としては、まずからだを動かすことが苦にならなくなる。階段を上がったり、長時間歩いたりすることが、びっくりするぐらい楽になる。それは無理のないからだの使い方を自然に覚えるからであるが、そうすると、今まで気づかずに動きに費やしていたエネルギーが要らなくなるので、それを他の領域に活用できるようになる。精神的なゆとりが生まれ、感覚や感性が豊かになってくる。自信も生まれてくる。相乗効果で眠っていた可能性が目を覚まし、豊かな精神生活、創造的な人生に再出発することができる。
 今までパーソナリティと呼ばれ、不変のものと思われていた自分の「ひととなり」がきわめて短期間に変貌するのを体験して、驚くことにもなるだろう。

(Copyright 1988, Takeshi Yasui )



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