出会いと発見 2

ドロン・ナボンさんとの出会い

フェルデンクライス・メソッドのことを語るとき、フェルデンクライスの著書との出会いについでどうしても欠かせないのは、ドロン・ナボンさんとの出会いである。それは1985年4月初旬のことだった。留守番電話に珍しく英語のメッセージが入っていたが、それがドロンさんの声であった。是非会いたいという意味のことであったと記憶している。折り返し連絡をとって翌日の夕方、六本木の劇団の稽古場で落ち合うことにした。

その頃、私は立松和平氏の『遠雷』の公演が間近に迫り、台本作りやらスタッフの編成やらと、何かと忙しい最中であった。きわめて現代的でありながら土の香り濃厚なこの作品を舞台化するに当たって、できるだけ新鮮な俳優を起用したいと考えた。冒険ではあるが、新人たちを中心にすえて、周りをベテランが固める布陣で臨むことこそ、“いま”という時代の息吹を伝えるもっともよい方法であろうと期待したからである。そのためには万全を期さなくてはならない。そこで、稽古に入る1ヶ月近く前から若い俳優たちを相手に演技のワークショップを開くことにした。ドロンさんから連絡を受けたのは、ちょうどこれがスタートした直後のことであった。

翌日の夕方、六本木に現れたドロンさんに劇団の稽古場を案内してから、裏通りのパブ風レストランで話すことになった。私は疲れていてビールを飲みたかったが、彼はフレッシュ・ジュースを注文するというので付き合うことにした。

ドロンさんは見たところ30代で、やや小太りだが、目がきれいな人だなというのが第一印象だった。イスラエルの本部に日本語訳のフェルデンクライスの本が届いていたので、それで私のことを知ったという。

ドロンさんは日本語をかなりうまくしゃべることができる。もう何年も前から柔道や古武道を習いに毎年来日しているが、そもそもフェルデンクライス・メソッドのことを知ったのも来日中のことだったそうで、モーシェ・フェルデンクライスの第一秘書を長年にわたって務めたミア・シーガルさんと東京で出会ったのがきっかけだという。

それを機にイスラエルでモーシェから直接メソッドの指導を受けるようになり、その後テルアビブの郊外でフェルデンクライス・メソッドを活用して日本の古武道を教えるアスレティッククラブを経営するようになった。現在はアメリカ、カナダをはじめ、世界各地でフェルデンクライス・メソッドを取り入れた日本の古武道(戸隠流忍術)の指導者として活躍している。

この出会いは、私がフェルデンクライスの最初の本を訳してから3年以上経っていた。その間、訳書そのものもあまり売れなくて、メソッドに対する関心も期待していたほど高まりはしなかった。私は孤独な気持ちで一人こつこつと演劇畑を中心にメソッドの芽を耕しながら試行錯誤を続けていた。

ドロンさんは日本ではまだ個人的にしか教えたことはないが、是非日本でフェルデンクライス・メソッドを広めてゆきたいと思っているということから話は始まり、モーシェの人柄、フェルデンクライス・メソッドの本質的な側面、それの応用面、各国での普及の現状等々と話題は尽きることなく続いた。気がついたら、もう夜も更けてきて、帰宅の時間が迫っていた。最後に、私が始めたばかりの新人俳優たちの演技ワークショップのことを伝えると、ドロンさんはメソッドのデモンストレーションを買って出てくれた。早速日程を約束してその夜は別れた。今から振り返ってみると、日本におけるフェルデンクライス・メソッドの普及の端緒はこのときに開かれたといえる。

劇団俳優座での第1回デモンストレーションは、その二日後に行われた。私自身フェルデンクライス・メソッドを取り入れて演技のワークショップをやり始めたばかりだったので、もっけの幸いであった。少し間口を広げて出演者以外にも呼びかけたが、残念ながら参加者は10名足らずであった。どんな世界でもそうだが、事大主義というのは根強いものがある。得体が知れなくとも、少しでも興味があれば思い切って飛び込んでみるという冒険心をもつものはほんの一握りでしかないと思う。

それ以前、私は本で読んで学んだことを人に教えたことはあったが、誰かに直接メソッドを教わったことは全く無きに等しかった。最初のレッスンの記録は事細かに残している。今も読み返してみると、そのときの新鮮な感覚がよみがえってくる。ドロンさんは英語と日本語を交えて、ゆったりしたソフトな語り口で進行させる。時々口をついて出てくるジョークまがいのたとえ話が気分をほぐしてくれる。レッスンそのものはきわめて単純でベーシックなものだったが、自分で本を読みながら行ったレッスンとは異なり、体で味わうものには別の深さがあった。それまでの私は、メソッドを教えるとき、ひじょうに厳密に動きの質や量を規定するようなやり方をしていたことに気づいた。それとともに、自分で味わった感覚をだれでも同じように感じるはずだという思いこみもあった。一言でいうならば、メソッドの理論に忠実であらんがために、一人ひとりの具体的な存在を感じとることなく、私自身の感覚を相手に押しつける結果となっていた。「教えることは教わること」だという大事なことを忘れていたのに気づいたのである。教えることを通して学ぶことができなければ、教えることが人を動かすことはできない。このとき初めて、私はフェルデンクライス・メソッドの本質に気づくことができたのだと思う。

俳優座でのデモンストレーションはその後、数回続いた。その度に発見を深めながら、私は新しい世界を垣間みた気がする。参加者も次第に増えた。劇団の枠をこえて広く呼びかけた結果、さまざまの分野の人たちが加わり、最後のデモンストレーションのときには、かなり広い稽古場も40名以上の参加者であふれ返った。

ドロンさんの帰国の日が迫り、有料でのワークショップを2回ばかり行ったが、この期間のドロンさんは無料で種を蒔くことに専念したといっていい。私も何とかしてドロンさんの助けを借りて日本にフェルデンクライス・メソッドを広められないかと考え、新宿の朝日カルチャーセンター講座課の蒲生さんを俳優座でのレッスンの場に招いたりした。幸い話は順調に進み、その年の秋の来日の際には、ドロンさんの特別セミナーが朝日カルチャーセンターで開かれることになった。その後は蒲生さんの尽力もあって、ドロンさんの来日に合わせて朝日での特別セミナーが開設されることになった。この朝日カルチャーセンターでの受講者たちが次第に数を増し、ようやくフェルデンクライス・メソッドは日本でわずかながらも市民権を得ることができるようになったのである。ここから始まって他でも小さなセミナーが各種開かれるようになり、輪は徐々に広がっていった。フェルデンクライス研究会も、その流れの中から生まれるべくして生まれたと言える。

思えば長い道のりであったが、ようやく地球は回りだしたのである。まだきわめて小さい動きではあるが、確実に回りだしたことは間違いない。(1989年1月記)

― フェルデンクライス研究会機関誌 AWARENESS No.4所載 ―



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