俳優のレッスンについて

--- 雑誌『テアトロ』1991年7月〜10月連載 ---

安井 武       

俳優のレッスンについて(1)--- じめに

「出発点とすべきは身体—すなわち、経験の貯蔵庫であって、観念ではない」
(サム・シェパード)

 以下の連載では、俳優のレッスンについて、基本的な考え方を述べながら、私自身の経験に即して具体的な方法にも少々触れてみます。俳優修業とか演技訓練(トレーニング)という言い方をするのが普通ですが、あえてレッスンという言葉を使います。 私の属している劇団俳優座では、三年前から演技部の新人を一般から公募して育成する仕事に取り組み、また今年からは演劇実験室(LABO)をスタートしました。私はこの二つのプロジェクトに積極的に関わっているのですが、その中で俳優のレッスンの方法について試行錯誤を重ねています。その体験と私自身のためのノートをもとに、問題提起のつもりで若干の考えをまとめてみようと思います。

現状について
 俳優教育の問題については、ここ何年もの間、公開の場で議論されることがほとんどなかったように思います。にもかかわらず、俳優学校や俳優養成所の数は私が芝居をはじめた頃に比べると驚くほど多くなっています。ほとんどの劇団が自前の俳優養成所を持っているし、劇団とは関係のない独立した俳優学校もいくつかあります。それぞれの俳優養成機関は、独自のカリキュラムを組み、講師陣は各自が自前の方法でレッスンを行なっています。自分のレッスン法を公開している人は、片手の指で数えられる程度ですから、いま日本の俳優養成機関で日々行なわれているレッスンの方法が具体的にどのようなものであるかは、実際に特定の養成所に入って体験してみなければほとんどわからないのが実情です。一つの養成所内部においても、同僚の講師がなにをどのようなやり方でレッスンしているのかは、互いに分からないことも多いようです。
 私はつねづねこういう状態は、決していいことではないと考えていました。確かに、俳優のレッスンをどういう方法で行なうかということは、劇団や集団指導者が目指す創造方法と密接に関係する問題です。だから、どういう俳優を求めるかによってレッスンの方法も違ってくるのは当然でしょう。とすれば、少なくとも集団の数だけのレッスン方法があってかまわないということになるかもしれません。しかし、果してそうでしょうか?
 少し前の本誌の座談会で「小劇場演技と新劇的演技」という水と油のような二つの異なった演技方法があるという話題が出ていました。私はそれを読みながら奇妙な感じを味わいました。現象的には確かにそのとおりかもしれませんが、そういう区分けは、現在の小劇場演技と新劇的演技をそのまま承認するだけのことで、結果として、両者の駄目な部分を擁護することになりかねません。なぜなら、小劇場演技の類型化と新劇的演技の衰弱こそが、今なお、もっとも重大な問題であるはずだからです。
 ちょっと飛躍しますが、私の考えでは演技の根底は一つしかありません。創造方法や演出の指向性によって、ベクトルの違いが現れるだけです。
 では、いわゆる小劇場演技の類型化がなぜ生まれたのでしょうか。それは、一言でいえば、俳優を育てるための方法論がそこにないからです。若い俳優志望者の生の素材の面白さに依存して、即席料理のように舞台を提供することだけに終始し、持続して演技の方法を追究する仕事がおろそかになっているか、無視されているからだと思います。
 一方、新劇的演技にはとりあえず長年培われてきた方法があります。それが衰弱しているとすれば、寄って立つ方法自体の衰弱だと言えます。方法が衰弱していることと方法がないこととは全然別のことです。いくら衰弱してはいても、方法がないよりもあるほうがはるかにいいと考えています。方法のないところに持続した活動はないし、持続することなしに仕事を発展させることはできません。最大の課題は、新劇的演技の方法を批判的に再生させることにあります。現代演劇の停滞を打ち破るには、この方向を目指すのがいちばんの近道だと思います。
 このことは既に二十年以上前から気づかれていた問題です。だからこそ、反・新劇を標榜するさまざまな活動も起こってきたわけで、その流れはとりあえず現在の小劇場群に受け継がれています。
 しかし、現在の小劇場は、初期の初々しい方法意識とはどこか無縁の次元で、さまざまな演技スタイルを無批判に受け入れ、舞台効果を最優先させる作り方をとっています。初期の方法意識を持続して貫徹しているのは、わずかに鈴木忠志氏のスズキ・メソッドがあるのみと言っても過言ではないでしょう。
 それに対して「伝統ある」新劇的演技の大劇団はどうかといえば、70年代初頭に、台頭する小劇場運動に刺激されて、各劇団ともに内部にいわゆる「反乱分子」を抱えることになり、数々の内紛現象が起こりました。結果として多数の退団者を生み出すことで、この「内乱」は終息を迎えてしまいました。そのため、一種の政治的現象として忘却の彼方に葬られ、当時芽生えていた貴重な創造上の問題意識は充分醗酵することなく空しく時間が経過することになりました。
 私の属する俳優座でも、70年頃に、劇団代表である千田是也氏の指導性に反旗を翻す形で内紛がありました。私自身もその「一味」に加わりましたが、当時の仲間は今や他には一人もいなくなりました。たもとをわかつことになったわけですが、その原因は、問題意識の相違にありました。
 新劇的演技が衰弱から脱しきれず、時代の感性と生き生きと呼応しあう表現を見いだし得ていないのは、戯曲や演出の問題もさることながら、なによりもまず演技の方法論を持続して発展させてこなかったことに原因があります。
 いま存在している俳優術と演技レッスンの方法をざっと見渡してみると、方法として位置づけできるものとしては、まず千田是也氏の近代俳優術とその系列に属する流れがあります。「近代俳優術」(上下)という本自体は既に絶版になって久しいのですが、その内容は旧俳優座養成所のカリキュラムにはじまり、その関係者や卒業生を中心に現在の各養成所でかなり広範囲に受け継がれています。その意味でこれは、日本で生まれた俳優術の方法としては記念碑的な仕事だったと思います。いまこの「近代俳優術」を読み返してみると、演技の各要素をもれなく散りばめたカタログ集という印象を受けます。千田是也氏自身は、近代俳優術の限界に気づいて、それの改定版としての「現代俳優術」を方法化する仕事に取りかかっています。その成果が早く実ることを期待しています。
 他には、竹内敏晴氏の「竹内レッスン」があります。これは野口体操を土台に、近代主義的心身二元論を超えて、人間の可能性を開く方法を演劇の分野で構築しようとする野心的な試みだと言えます。
 鈴木忠志氏のメソッドについては、断片的な情報をもとに、実際の舞台から強烈な方法意識を感じているだけで、残念ながらその実体についてはまだ殆ど知りません。近くその全貌が明らかになる企画が進行しているらしいので大いに期待感を持っています。
 以上あげたもの以外には、スタニスラフスキー・システム、その初期の成果のアメリカ的変形であるストラスバーグの「メソッド演技」、フランスのルコック・システムなどが部分的に輸入されていますが、成果のほどは分かりません。あとはさまざまな方法を混在させた折衷主義的なものがいくつかあるようですが、そのあたりになると、到底私の守備範囲を超えています。

どこから出発するか
 俳優を志して集団に入ってくる若者たちは、言わば生の素材のようなもので、無限に近い潜在的可能性と同時に、それの実現を妨げる無数の障壁を持っています。可能性を開くということは、その障壁を取り払い、潜在能力を顕在化させることにほかなりません。それを実現するためには、一定の方法論がなくてはなりません。何かが実現されるまでには、そこへ到るプロセスが必ずあります。方法論とは、なにかが実現されるプロセスを意識化したもののことです。プロセスなしに実現されることを奇跡と言いますが、奇跡は神の仕業であって、人間的事象ではありませんから、われわれのフィールドを超えています。
 生まれつきの俳優というものは存在するわけはなく、だれしも生まれてから俳優になります。
 人間という種は、生物進化の頂点に位置していますが、先天的な能力の比率ということから言えば、動物の中でもいちばん劣っています。例えば四つ足の動物は生まれ落ちて間もなく歩くことができ、走ることができるまでにはさほど時間はかかりません。ところが、人間が歩くことができるまでには一年近い時間が必要です。しかしながら、歩けるようになった人間は、きわめて短期間のうちにその運動能力を飛躍的に向上させることができます。ダンサーの微妙な身体表現やピアニストの繊細な指使いやアクロバットの神業的な平衡感覚を考えれば、その飛躍のいかに大きいかが納得されるでしょう。平均的人間能力を考えても、日常の立居振舞いはもちろんのこと、言葉を駆使し、電話をかけ、時間どおりに目的地へたどりつき、コンピュータを操るということは、驚くべき飛躍です。人間が一生のうちに実現する平均的能力に対して、生まれ落ちたときに実現している能力の比率は、他の動物に比べて格段に低いことがわかると思います。ということは逆に、人間は後天的に獲得する能力の比率が格段に高いということになります。能力を獲得することを学習といいますが、人間が他の動物よりも優れているのは、この学習能力の点においてです。人間は学習する動物だと言えます。
 人間がもっとも高い学習能力を発揮するのは、幼児期です。なぜ幼児が高い学習能力を発揮できるかと言えば、それは自然のプロセスにそっているからです。自然の摂理と言ってもいいでしょう。先にあげた実例にもどれば、幼児は歩くことができるまでに、いくつかの段階を必ず経なければなりません。仰臥から伏臥に移る動き、つまり寝返りができることが第一段階で、それから背筋を使って頭をもたげることができるようになり、次に這うことができるようになると、上体を起こして座ることができるようになります。そこまで来てはじめてものにつかまって立ち上がるようになります。その状態で両足の裏で体重を支える平衡感覚を獲得して、ようやくものにつかまらずに歩くことができるようになります。歩くことができてはじめて走ることができます。走ることで速度感覚を身につけなくては、複雑なリズムで動くことを要求されるさまざまな人間的能力を発揮することはできません。要するに、這うことのできない人間にいきなり走ることを要求しても、それは自然のプロセスに反しているから無理なわけです。しかしながら、俳優教育の現場ではこれに類したことが結構行なわれているように思えてなりません。
 俳優のレッスンの基本的な課題は、人間の自然な学習能力を有効に活用する方法を意識化することにあります。
 統計的根拠があるわけではありませんが、なんらかのメソッドとは関係なく、俳優としての才能を開花させる人間が確かに存在します。しかしそれは千人に一人以下の割合ではないでしょうか。チャンスと感性が偶然に一致して、幸せにも潜在能力が顕在化する例外的な事例です。しかし、一人の天才だけでは演劇は成熟しません。できるだけ多くの有能な俳優を育てなくては、魅力のある舞台を創ることはできないでしょう。そのためには、レッスンの方法を意識的にシステマティックなものにしなくてはなりません。
 俳優志望者はだいたい二十代前後の若者ですが、その年代になると、既にかずかずの垢を身につけています。今日の家庭、学校、社会の教育システムの現状から言って仕方のないことではありますが、その垢は潜在能力の実現を妨げる障壁となり、自己解放を抑圧する固い鎧となっています。癖と言われるものは、この潜在能力と障壁とのせめぎ合いの現れです。
 癖と個性をとり違えて、癖で勝負する例は小劇場演技だけでなく、新劇的演技の中にもかずかず見受けられます。癖と個性は別物であり、癖を軽減することなしには個性は輝くことができません。癖はゆがんだ自然であり、不自然なもののことだとも言えます。ゆがんだ自然を正し、自然を再発見することで、はじめてその人の自然、すなわち個性が姿を現すことになります。
 自然なプロセスにそった幼児の学習方法には、もう一つ大事な側面があります。それは自発的な学習方法です。幼児は他から強制されることなく、自分からすすんで新しい能力を身につけようとします。生命力の自然な発露である内的欲求にしたがって、新しい能力の獲得を試みます。歩くこと一つとっても、その段階がくれば、だれでも自発的に歩くことに挑戦します。最初はものにつかまったまま身体を移動しますが、手を放した途端にすぐ転びます。試行錯誤を繰り返しているうちに、次第にバランスをとるのがうまくなり、やがて手を放して歩くことができるようになります。この過程で、幼児は目的を実現するために頑張るのではなく、成功と失敗を繰り返すプロセス自体を楽しんでいるようです。幼児の自然な学習課程の本質は学ぶことの楽しみにあると言えます。自分で発見することは、なにごとによらず楽しいものです。
 新しい能力を開発するためには、それがどんな分野のものであれ、いま述べた幼児の学習方法、つまり、自然なプロセスにそって、自発的に、自分の力で試行錯誤を繰り返しながら、新しいものを発見する楽しさをもって学習することがもっとも効果的です。
 そのような学習方法を実現するためには、レッスンの方法自体が問題になってきます。俳優の教育に即して言えば、まず第一に、演技の個々の課題を自然な発展段階にそって有機的に展開できるよう配置しなくてはなりません。例えば、自然な声が出ない生徒にいきなり早口言葉を大声でやらせるなどということは、その生徒に一生発声の欠陥を改善する機会を失わせてしまいます。身体が固くて運動エネルギーが体内を自由に流れない生徒に、いきなり高度なダンステクニックを教えるのは、歩けない人間に走れと命令することと同じです。
 声のレッスンを例にとれば、まず最初の課題は、声を出すときの身体感覚を改善することにあります。そのうえで、自然な呼吸ができるようにし、共鳴を広げ深める作業をする必要があります。自然な声の土台ができたとき、はじめて声とイメージを結びつけるための言葉のレッスンに入ることができます。
 自然な学習方法の第二のポイントは、結果を押し付けないことです。プロセスを改善すれば、結果はおのずと実現されるものです。レッスンの中では、できるだけプロセスそのものに集中するやり方をとらなくてはなりません。結果がよくなかったら、そのプロセスのどこに原因があるのかを考えて、プロセスを修正することです。どうしてもうまく行かない場合には、入口を変えて別のアプローチを試みることも必要になります。
 第三のポイントは、そういうアプローチを指導者が強制するのではなく、生徒が自発的に行なえるようにすることです。指導者は生徒の試行錯誤をサポートするだけの助言者の立場を守るべきです。あくまでも自分の力で新しいものを発見できるように生徒を励ますことが重要です。俳優の仕事は規格品を作ることではなく、無から有を創造することです。自分の力でなにかを発見する力がなければ、ものを創ることはできません。
 以上のような方法をとれば、俳優のレッスンは、修業、訓練、鍛錬という言葉で想像される強制的なイメージから解放され、自由で創造的な楽しい作業になることでしょう。
 次回からは、俳優のレッスンの基本的な課題を取り上げ、できるだけ具体的に述べてみるつもりです。


俳優のレッスンについて(2)-- からだのレッスン

 俳優のためのレッスンの土台は、なによりもまず身体のレッスンであるというのが私の考えです。総ては身体に始まり身体に終ると言ってもいいでしょう。
 俳優にとって、身体は、表現の媒体であると同時に、表現の主体でもあります。たとえてみれば、俳優の身体は楽器であると同時に、演奏者でもあるわけです。つまり、俳優の仕事は、自分自身の身体によって表現することですが、その表現の媒体である身体は、決して自己の外側にあるものではありません。心と身体は二つのものではなく、心の働きは身体の動きとして現れ、身体の動きは心の状態を映し出します。そして、声も身体の動きであり、言語活動も高次の身体行動にほかなりません。だから、身体のレッスンは、まず自分の身体を内側からとらえ、感じとることから始めなくてはなりません。今回は、そのような身体のレッスンの入口について、私の考えを述べてみたいと思います。

心と身体
 心と身体を二つのものとしてとらえる考え方を、心身二元論と言いますが、これは、近代科学の成立とともに、人間の身体に対する科学的なアプローチが始まってから、ますます強まってきた考え方で、身体を自己の外側にあるもののごとく扱う方法を生み出しました。この考え方は今なお広く受け入れられていて、スポーツのトレーニングから、一般の健康体操の類にいたるまで、あたかも楽器を調律するように身体を調教するというやり方がかなり一般的です。
 このような考え方と方法は、俳優のレッスンの中にも強く影を落としています。私が旧俳優座養成所で勉強を始めた頃は、発声・発音から物言う術にいたる声と言葉のレッスンが中心におかれていて、それとは別に、体操、踊り、マイム、フェンシングなど、他のジャンルの方法で肉体を鍛えることが、俳優の身体のレッスンだとされていました。この場合、身体へのアプローチは、動作や身振りをより洗練されたものにするための単なる技術的な肉体訓練でしかありませんでした。そして、この両者をつなぐものとして、即興的なエチュードを中心とした心理的なレッスンが試みられていましたが、以上の三つは、有機的な関連をもって行なわれていたわけではないので、俳優にとって基本的な「演じる」身体感覚の土台を作るにはきわめて不十分なものでした。
 その最大の原因は、身体を心と切り離し、まるで自己の外にある道具のように見なす考え方そのものにあったのでした。そのことに気づいた私は、なんとか演劇独自の身体のレッスン方法が考えられないものかと、その後いろんな身体論や身体メソッドを求めて試行錯誤を繰り返すことになりました。そして、主として心身相関のアプローチを土台にした東西の様々なメソッドを実際に体験する日々が何年も続きました。一つ一つ名前を上げることは止めますが、その中で最も影響を受けたのは、モーシェ・フェルデンクライスの方法です。
 フェルデンクライス・メソッドについては本誌五四五号(一九八八年七月号)に書きましたから、重複は避けますが、それを一言で言えば、身体の動きを使って人間の潜在能力を目覚めさせる方法です。その基本は、神経系に直接働きかけるやり方で身体を動かし、眠っている神経回路を活性化し、身体意識を広げ深めることにあります。その意味では、なによりもまずボディ・ワークには違いありませんが、しかし、それだけではなく、重要なのは、物事をどうやって身につけるか、その方法を教えてくれることにあります。学び方を学ぶ方法だと言ってもいいでしょう。だからこれは、閉鎖的に自律したメソッドではなくて、どのような分野にも応用することができる開かれたメソッドであり、この点がフェルデンクライスの方法のいちばん本質的な側面です。私は俳優教育の最初の数カ月間に、このメソッドを応用した身体のレッスンを集中的に行なうようにしています。しかし、これは最初の段階で体験すれば卒業できるというようなものではなく、たえず立ち帰って耕さねばならない土壌のようなものですから、いくら経験を積んだ俳優にとっても自己再発見の有効な方法になります。

自己イメージとしての身体
 誰でも自分自身について、あるイメージを抱いています。それは生まれてから自分で作り上げてきたものですが、その自己イメージの形成に、生まれ育った家族や社会という環境の果たす役割は大きいものがあります。私たち人間は誰でも、この自己イメージにしたがって行動します。
 ふだん殆ど笑わない人が突然大声で笑ったとします。周りの人は少し意外な感じを受けるかもしれませんが、あまり気にはしていないのに、当人はものすごく恥ずかしい思いを感じたりします。この恥の感覚は、その人が自己イメージに反した振舞いをしたことから生じるわけです。自己イメージがいかに自分の行動を規制しているかは、少し自分を突き離して見てみれば、いろいろ思い当たることはあると思います。
 自己イメージは極めて主観的なもので、他人が客観的に見ればどうということはないのに、当人はひどくこだわっているものです。自己イメージが行動を規制し、能力を限定していることは明らかです。能力を高めるというのは、既に獲得している狭い自己イメージを解体し、より広いものに変えてゆくことだと言っていいでしょう。
 自己イメージの中核には、自分の身体に対する自己イメージがあります。それは、自分の身体の姿勢や動きに対して自分で意識している感覚、つまり身体意識(あるいは身体感覚)です。笑わない人にしても、面白いという感情を体験することはあるわけで、ただその場合でも、横隔膜を躍動させたり、顔面筋肉を大きく変形したりして大声を立てて笑うという身体の動きを自己イメージに反するものとして抑制しているのです。
 姿勢や動きの癖というものがありますが、当人はそれを自己の身体イメージと整合しているかぎり、自然なものとして受け入れ、癖だとは意識しないものです。なくて七癖という諺もあります。しかし、それを不自然だと意識したとき、初めてそれが癖であることに気づくわけです。自分の癖に気づいたとき、初めて癖がなくなる可能性が生まれます。身体へのアプローチは、不自然なもの=癖に気づくことから始まります。その第一歩を踏み出せば、癖を解体し、より自然なものを発見する道が開けてきます。

身体の自然を再発見する
 身体を自分の外にある道具と見なす考え方では、各部の性能を高めれば全体の機能が改善されるという方法を取ります。しかし、人間の身体は解剖学的な各部分を寄せ集めたものではありません。各部分は相互に関係をもって有機的な全体としての生きた身体を作っています。
 人間の身体は、主に骨格と筋肉からできていますが、成人の場合に、骨格は二〇六本の骨が関節で動くようにつながっていて、その全重量はわずか九キログラム程度で、それ以外は筋肉などの柔らかい組織です。野口三千三氏は、人間の身体を水を入れた皮袋に例えられましたが、それほどではないとしても、極めて柔軟性に富んでいることは間違いありませんん。水を入れたゴム袋のどこか一ケ所を押すと、袋全体が揺れ動きますが、人間の身体もどこかに緊張がないかぎり、部分の動きは必ず全身に伝わってゆくはずです。動きの伝わり方によって、その人の身体の状態が確かめられます。
 これを実験するには、仰向けに寝た人の片足を少し持ち上げ、軽くそっと押したり引いたりしてみます。足の角度を少しずつ上下左右に変えながら、同じことを繰り返します。片足に加える力が、骨盤から胴体、肩と腕、そして頭にどういう動きを引き起こすかを注意深く観察します。それから、反対側の足でも同じことを繰り返し、観察結果を先ほどの足の場合と比較します。右足と左足で随分違う場合もあるでしょうし、人によって動きの量と質の違いはかなりのものになります。
 床に寝ころんでいるのですから、立ったときの筋肉の力は要りません。無駄な緊張さえなければ、全身は敏感に反応し、頭の先まで伝わってゆくはずですが、そういう場合はごくまれで、大抵の場合、どこかで動きが止まってしまいます。
 筋肉をリラックスさせることができれば、動きは自在に全身へ伝わるのですが、ここで一つ大事なことがあります。それはリラクセーション(筋肉の解放)についてです。全身の筋肉を完全にリラックスさせることは、殆ど不可能であるとともに、動きのためにはよい状態だとは言えません。どんな姿勢をとるにしろ、その姿勢を維持するための最小限の筋肉の緊張度は必要になります。立っているときに首筋やふくらはぎの筋肉は少し固くなっていますが、これは抗重力性筋肉といって、その働きは脳の古い領域で半ば無意識的にコントロールされています。意識してゆるめようとしないかぎり、緊張には気づかないものです。
 しかも、問題は身体を動かすときの各部分相互の関係を有機的に組織化することにあります。静止しているときにいくら筋肉がリラックスしていても、いざ動くとなると、がちがちになってしまったのでは、意味がありません。ダイナミックなリラクセーションというか、静止した姿勢のときには、どんな行動にも対応する準備ができていて、即座にどの方向にも移行できること、そして、動くときには、必要以上の力を使わずに、最小のエネルギーで最大の効果を上げるような身体の使い方ができることが目標になります。「名人は頑張らない」という言葉がありますが、何事であれ、難しいことをいとも楽々とやってのける能力こそプロフェッショナルの条件です。頑張って汗水たらして動き、怒鳴りまくる演技は、同情をかうことはあっても、感動を得ることはできないでしょう。
 無駄なエネルギーを使わないで動けるためには、動くときの身体の使い方に気がつくようになること、動きのプロセスを大事にすることです。結果としての動きの形を達成することを目指すのではなく、そこへ到る過程に神経を集中ことです。プロセスを改善すれば、結果は自ずとついてくるものです。そうすれば身体感覚は自然と深まります。鋭敏な感覚とは、僅かな差異に気づくことです。音の微妙なずれに気づくかどうかが、その人の音に対する感覚を計る基準になります。したがって、身体各部の使い方、筋肉の働きの微妙な違いを区別できるようになることが身体のレッスンの基本的課題になります。
 違いに気づきそれを発見するためには、同じ動きでもできるだけ別のやり方を試みてみることです。毎回同じやり方を繰り返すだけでは、退屈を覚え、感覚は麻痺してしまいます。一つの山に登るにも、いくつかの別の道を使ってみると、それだけ発見も多くなります。毎日同じ道を通って家へ帰るのではなく、たまには別のルートを使ってみると、今まで気づかなかったことに気づくようになります。新しいものは、自分で道をつけて切り開いてゆかなければならないから、苦労も多いが、それだけに発見の喜びも多いものです。
 身体感覚として最も重要なものは、重力に対する感覚です。重力がいかに重要なものであるかを示す証拠としては、長期にわたって無重力状態を体験した宇宙飛行士が、飛行中にかなりハードな身体トレーニングを続けたにもかかわらず、筋肉が異常に萎縮してしまったという報告があります。地球上の重力野にいる限り、ほとんど運動をしなくても、筋肉は通常の状態を保つことができます。もしエネルギーを効率よく使うことができるだけの成熟した身体感覚があれば、特に身体のためのレッスンをしなくても、日常の動きの中だけで、身体の動きの能力を高めることができます。
 動きの質は重力をいかにうまく利用するかに左右されます。片足で立つ場合、全身の各部を自然に配置し、重力のバランスをとれば安定して立つことができます。歩く動きは、左右の足で交互に重力のバランスをとりながら、空間の中で身体をある方向へ移動させることですが、その動きのプロセスのどの瞬間をとっても、全身各部の配置が重力に逆らわずにバランスよく調整されていれば、歩き方は自然で生き生きしたものになります。それを美しい動きと言っていいでしょう。
 歩くという平凡な動きにしても、それを身体運動力学的にみれば、複雑多岐にわたる各要素の複合になります。各要素個々の機能を意識的に調整しようとすると、身体感覚は分裂してかえって自然な動きはできなくなってしまいます。手足の角度や頭の位置をこと細かく指摘されると、全身の動きはばらばらになって、ついには動けなくなる例はよく経験することです。
 そういう複雑多岐にわたる各要素の複合を総合して、全体として感じとることができるのが、重さの身体感覚です。重さを鋭敏に感じとり、重さに身を任せ、重さと友達になり、重さが教えてくれることに素直に耳を傾けられるようになれば、動くことは実に楽になり、快いものになります。重さは、無意識のうちに身体に知恵を授けてくれるのです。

身体のレッスンの実例
 身体の癖というものは、習慣的に固定した不自然な動きのパターンのことですが、それには様々な個体差があり、生まれ育った環境の影響と本人の自己レッスンのやり方によって様々です。この習慣の檻に閉じ込められた状態から解放するには、身体の内部で運動エネルギーの自由な流れを阻害している筋肉の不必要な緊張を解きほぐさなくてはなりません。でも、個人差があるわけですから、具体的なアプローチの仕方は人によって異なります。しかしながら、直立して歩行するという人間の動きの普遍的なあり方から、過度の緊張の生まれやすい個所は共通しています。それは腰と首筋にあります。腰痛と首の凝りは、殆どの人が経験することからも、そのことは分かると思います。
 自然な姿勢のためには、重力に対して骨格をバランスよく配置し、筋肉の力をできるだけ使わないことが必要です。そうすれば、筋肉は次の行動に向けて骨格の配置を変更すること(つまり動くこと)により効果的に使うことができます。腰は骨盤の上の部位で、骨格としては腰椎があるだけですから、体重の相当部分を占める上半身を支えために、周りの筋肉組織にかなりの負担がかかがちになります。特に腰椎の左右で縦に走る大きい背筋は、抗重力性筋肉の代表で、常にある程度の収縮状態になければ立っていることはできません。同じことが首の筋肉についても言えます。頭蓋骨は頚椎上部で支えられていますが、その支点は頭蓋骨の中心点よりやや後ろよりになっていますから、首の背後の筋肉はつねにある程度の収縮状態にないと、頭は前に倒れてしまいます。
 この二ヶ所の収縮状態が過度である場合、つまりいつも必要以上に緊張していると、それは股関節、膝、肩、胸郭などの緊張を引き起こし、場合によってはさらに手足の末端部分にまで広がることもありますが、それは、腰と首の緊張を取り除くことでかなり軽減されます。腰と首の緊張を解放するためには、骨盤、胸郭、および頭の動きを改善することになります。骨盤には、体内の最も大きい筋肉群は骨盤につながっていますので、人体のパワーセンターとして動力学的な中心の働きをします。頭は脳と主要な感覚器官がある部分で、行動をリードする役割を果たします。胸郭は内蔵器官を保護すると同時に、呼吸活動をコントロールしていますが、特にこの部位は、骨盤と頭部を結びつける鎖の輪として重要です。胸郭の働きがよくなくて鎖の輪が切れていては、自分の意図した通りのことを実行することができません。したがって、身体のレッスンはまずなによりも、骨盤、胸郭、頭部の動きを改善し、相互の有機的な関係をつけるために行なわれます。
 フェルデンクライスは、数千種類にものぼるレッスンを考案しましたが、どのレッスンにおいても、例えば手の動きや足首の動きのレッスンをとっても、骨盤、胸郭、頭部の動きと関係づけられています。個々のレッスンは、どれも一時間前後かかりますから、多くの実例を上げることはできませんが、代表的なレッスンを一つだけ取り上げて、少し具体的に説明してみようと思います。

架空の時計の文字盤
 レッスンで指導者は言葉で動きを指示するだけで、絶対に動きの実例を示すことはしません。普通の身体の訓練法としては特異なやり方ですが、これこそフェルデンクライスの方法の本質的な側面です。実例を示すと、その外形を真似ることになり、身体を内部から捉える感覚がおろそかになるからです。このレッスンでは、動くことは決して目的ではなくて、あくまでも身体感覚を目覚めさせるための手段にすぎないのです。
 まず最初に、仰臥の姿勢をとり、ゆったりと床に身体をあずけて床との接触感を味わいます。レッスンは十種類以上の動きのバリエーションからなり、単純な動きから次第に複雑な動きに発展し、最後に全部のバリエーションを総合した動きになって終りますが、各バリエーションごとに最初の仰臥の姿勢をとって休息します。身体がリラックスすればするほど、床との接触感は広がってきます。それぞれの動きは二十回前後繰り返すことになりますが、絶対に頑張らずに、気持ちよく感じる程度の動きをすることが求められます。そのバロメーターは呼吸です。動きの量を増やしてゆくと、ある抵抗を感じる個所にぶつかります。その壁を超えようとすると、呼吸が乱れてきますが、それはやりすぎの証拠になります。自然な呼吸が続けられる範囲の動きにとどめることが大切だとされます。呼吸が乱れるほど頑張ってしまうと、動くことが目的になってしまい、身体を内部から捉える感覚が働かなくなってしまうからです。
 次に、仰臥のまま両膝を立てた姿勢をとります。そして、骨盤の下の床の上に時計の文字盤があると想像します。文字盤の数字は、6が尾抵骨のところ、12は骨盤の上部の腰椎との接点、3は骨盤の右側(右股関節)、9は骨盤の左側(左股関節)のあたり、そして骨盤の真中が文字盤の中心点になります。そうすると、最初の姿勢では骨盤は文字盤の中心点で床に接触することになります。
 そこでまず、骨盤が文字盤の12時のところで床と接触するようにします。つまり尾抵骨の部分を床に押し付ける動きです。すると、6時の側、すなわち腰椎の部分は床からさらに浮き上がった状態になります。次に、6時のほうへ接触を移します。すると、12時の側は床から浮き上がります。12時と6時を交互に接触させる動きをゆっくり滑らかに繰り返します。動きをつづけながら、呼吸が動きと関係なく自然に続くことに気をつけると同時に、一回ごとにより少ない力で楽に動けるように工夫します。その中で、身体のどこの部分をどのように使っているかをよく観察します。使っているのは腹筋か、背筋か、脚の筋肉かを識別できるでしょうか。20回くらい繰り返すと、だいぶ楽に動けるようになるでしょう。両膝を伸ばし、骨盤のあたりと床との接触感がどう変わったかを味わってみます。
 今おこなった動きのとき、頭はどういう動きをしていたかを思い出してみましょう。骨盤が楽に動くようになるにつれ、頭が同じような動きをしていたことに気がついたでしょうか。それでは、頭の下の床に、もう一つの小さい時計の文字盤があると想像します。そして、もう一度両膝を立てて先ほどと同じ動きを繰り返します。骨盤の動きは背骨を伝わって頭を同じように動かしているでしょうか。骨盤の12時の部分が浮き上がると、頭は背骨に押されて顎が上がり、頭の文字盤の12時にあたる部分も床から浮き上がるでしょうか。骨盤の動きが自然に頭に伝わるかどうかは、胸郭と首筋の状態に左右されます。
 さて、次の動きでは、接触点を12時に移し、そこから1時までの円周を往復させます。これを数回繰り返し、次は12時から2時までを往復させます。その次は12時と3時の間を数回往復させるというふうに、1時間ずつ増やして12時と6時までやります。これで右側の半円の動きをおこなったことになります。ここで休息の姿勢をとり、床との接触感を味わいます。接触面積がどう変わったか、そして骨盤の右側と左側の違いを比較します。頭が骨盤と同じような動きをしていたかどうかも思い返してみましょう。
 次には、左側(9時側)でも一連の同じ動きを繰り返し、終ったら休息して床との接触感の変化を観察します。このようにして、レッスンは進みます。以下のバリエーションは、動きの概略だけを述べておきます。
・3時を中心に2時と4時の円周を数回往復します。ついで1時と5時、12時と6時の往復で右側を終り休息し、床との接触感を味わいます。同じ動きを左側の9時を中心にしてもおこないます。
・12時から時計回りに骨盤を動かします。20回くらい繰り返したら休息して接触感を観察し、逆時計回りもやります。この場合、動きのモーターは骨盤ですが、それを頭に移して同じことをおこないます。そして、動きが途切れないように、動きのリズムを変えないようにしながら、モーターを骨盤と頭の間で交互に切り替えます。以下はこれと同じ動きを様々の姿勢をとって行ないます。その姿勢は次のようなものになります。
・右膝だけを立てた姿勢で。
・左膝だけを立てた姿勢で。
・両脚とも床に伸ばした姿勢で。
・右膝の上に左膝を組んだ姿勢で。
・左膝の上に右膝を組んだ姿勢で。
・上体を両肘で支えた姿勢で。
・座って背後に両手をついて支えて。
 これ以外にも様々の変形が考えられます。いずれの場合にも、骨盤の動きが頭の動きにつながっているかどうかが大切な点です。ここまでは骨盤と頭の回転は同じ方向でしたが、さらに動きが改善されてくると、骨盤と頭は逆方向に回転するほうが自然になってきます。一回のレッスンでそこまで到達するのは難しいかもしれません。別のレッスンを体験して、身体の感覚がもっと開かれてきたら、今は難しい動きもいずれ自然にできるようになります。
 私はこのレッスンを最初に体験したときの感覚を今でもまざまざと覚えています。ここに上げたバリエーションを全部はやりませんでしたが、一時間以上をかけてゆったりと進行し、強制の雰囲気は全くありませんでした。「もっとゆっくり」「もっと楽に」「力を節約して」という注意がたえず繰り返されました。エネルギーを節約し、その代わりに時間だけは贅沢に使うという感じがしたものです。言葉だけの指示にしたがって動くわけですから、頼りになるのは自分の内部感覚だけです。初めはそのことにどまどいましたが、最初の動きが終って休息して床との接触を確かめていると、不思議な解放感を味わいました。それから後の休息の度ごとに、劇的に自分の身体の状態が変化してくることにはっきりと気づくようになりました。そうすると、自分で動きを発見することが楽しくなり、それとともにどんどん軽く動けるようになりました。
 一時間のレッスンはあっという間に終り、立ち上がって歩いてみると、身体は実に軽くなり、呼吸は深く楽になっていて、それは今まで味わったことのない清々しい感覚でした。僅か一時間の間にこれほどの大きな変化が起こるとは、全く信じられないことでした。
 毎回新しいレッスンを体験することがフェルデンクライス・メソッドの特徴ですが、彼が考案したレッスンは、何千種類にもなりますから、その全部を体験することは到底不可能です。私はかなり強い腰痛と肩凝りに悩まされていましたが、数回のレッスンを受けてからは、嘘のようにその悩みから解放されてしまいました。
 私はその後、レッスンを指導するようになり、俳優だけでなく、一般の様々の年齢・職業の人たちにも教えていますが、殆どの人がレッスンを重ねるにつれ、姿勢や動きが自然になり、表情が生き生きと豊かになり、声の出し方まで変わり、まるで別人かと思うほどの変貌ぶりに自分でも驚くほどです。俳優の場合には、身体の動きのコントロールが見違えるほどよくなるのは勿論のこと、内的衝動が外的行動と生きた結び付きをもつようになり、情動エネルギーが自在に体内を流れるようになります。今のところ、私にはこれに優る俳優の身体のレッスンは考えられません。


俳優のレッスンについて(3)--- 声のレッスン

自分の声
 声のレッスンでいちばん厄介な問題は、自分の声を自分で正確に聞くことできない点にあります。確かに自分が声を出しているとき、自分の発する声を自分の耳でキャッチしています。しかし、その自分で聞いている自分の声は、他のひとが聞いている自分の声と同じではありません。
 たぶん誰でも、自分の声を録音して聞いた経験があると思います。テープから聞こえてくる自分の声を初めて聞いたときのことを覚えているでしょうか。それまで自分の声について抱いていたイメージとテープから聞こえてくる自分の声との落差に愕然としなかったひとは、おそらくいないのではないでしょうか。テープによって再生される声は、写真の場合と同じように、機械的な変形を受けるので、その瞬間の生きたフィーリングをまざまざと再現してくれるわけではありません。しかしながら、録音された自分の声に対し自分自身が感じるほどの違和感を他のひとが感じるわけではありません。最近の進んだ技術では、手軽なテープレコーダでも、かなり正確に人の声を再現してくれます。だから、他人は録音されたあなたの声を聞いても、あなたの生の声との違いに殆ど気づかないのが普通です。どうしてそういうことが起こるのでしょうか。
 その一つの原因は、自分の声を聞く場合の生理的メカニズムを考えてみれば分かります。声は、声帯で生まれた振動が内部の共鳴腔で増幅され、口から外へ空気中の音波となって広がります。その音は自分の耳へも他人の耳にも同じように入ってきます。そのかぎりでは、自分も他人も同じ音を聞いているわけです。でも、自分の声にはその他に、体内で増幅された振動が直接頭部の骨伝導によって内耳へ伝わってくる音が加わります。つまり、内から聞こえてくる声です。しかしながら、自分以外のひとには、この音は聞こえません。だから、この内からの声を完全にシャットアウトしないかぎり、自分の声を他のひとと同じ音質で聞くことはできないことになります。

声の自己イメージ
 さらにもう一つ、はるかに重要な原因があります。それは、自分の声について自分自身が抱いているイメージにあります。この声の自己イメージは、先の原因もその一部として含みますが、さらに大きく、生まれてからの環境や自己教育の結果として、社会的・文化的・生理的諸条件に制約され規定されて育まれます。それは、声についての感覚や概念、音質や音色の好み、声によるコミュニケーションの個人的特質として、深く身に染みついています。たとえば、自分では内的欲求にしたがって生き生きとしゃべっているつもりでも、周りのひとには生気のないしゃべり方だと思われたり、その逆の場合もあります。また、自分では「ア」と「オ」をはっきり発音しているつもりでも、他人が聞くと、その区別が曖昧であったりします。
 自分が出しているつもりの声と他人が聞くその声との違いの主要な原因は、自分の声に対する主観的な感覚と意識、すなわち声の自己イメージにあるのです。「声は人なり」と言ってもいいぐらいで、声にはそのひとの全人格が深く結びついています。声について何かを指摘されると、往々にして深く傷つけられた気がするのはそのせいです。
 声がそれほどにも自己イメージに制約されているのだとしたら、自分の声を客観的に聞くことは不可能だということになります。このことは声のレッスンにとって、きわめて厄介な状況を生み出します。
 声のレッスンの目的は、客観的な声を改善することにあるのですから、主観的にしか自分の声を聞くことができないとなると、自分の耳に頼った声のレッスンは意味がないことになってきます。常に自分の声がどう聞こえているかをフィードバックしてくれる手段があれば、問題は解決するわけですが、それは無理な相談というものです。有能なボイス・トレーナーに個人的に師事し、四六時中助言を受けられるならば、事情はかなりよくなるかもしれませんが、それはまず不可能に近いことです。また、声は全人格に関わっているので、周りのひとは声の欠陥を指摘することを遠慮するでしょう。
 となると、自分でフィードバックする手段を身につけるしかありません。つまり、主観的な声と客観的な声のズレをなくす感覚を身につけること、これが声のレッスンの土台であり、出発点でもあります。しかも、これこそがもっとも有効で永続する方法なのです。
 その作業は一人では始められません。まず信頼できる指導者や周りの人の批判的な指摘や助言に謙虚に耳を傾け、よく消化することです。その場合、主観的な声を信用せず、自分の耳を頼りにしないで、声を出しているときの身体感覚をチャッチし、それを通じて開かれた喉や豊かな全身的共鳴の感覚を手に入れることです。そうやって声を出すときの身体感覚を深めてゆけば、耳ではなく身体で自分の声を聞くことができるようになり、主観的な声を客観的に聞くことができるようになるのです。また、声の指導者の役割は、生徒の内に「声の身体感覚」を育てることにあります。

声のメカニズム
 声の生理学的メカニズムをごく単純化してまとめると、次のようになるでしょう。
(1) 脳の運動中枢が刺激されて信号を発する。
(2) その信号が呼吸器を刺激し、息が吸い込まれ、吐き出される。
(3) 息の流れが声帯を振動させる。
(4) 声帯の振動は吐く息に振動を伝え音を生み出す。
(5) その音は共鳴腔によって増幅される。
(6) 増幅された音は唇と舌によって調整されて言葉としての構造を形づくる。
 ひとが声を出すのは、ある対象に向かって何かを伝えたいという欲求が生まれ、それを実現する手段として声を使って働きかけようとするからです。この欲求が (1)の運動中枢の刺激を引き起こす要因です。これなしには生きた声にはなりません。そして、一連の複雑なプロセスが瞬時に処理されて、(6)で実際の対象に向かって発せられることになります。
 非言語的伝達と呼ばれる諸々の要素がありますが、それらは声による伝達の場合にも、当然動員されます。身体の姿勢、身振り、動作、表情、視線、等々、あらゆる伝達手段は声と一体となって表出され、対象との関係を生み出します。それらは、言葉の意味よりもはるかに重要な要素で、(1)から(6)までの声の生まれるプロセスに本質的な影響を及ぼします。
 そういう意味で、声のレッスンは、前号で触れた身体のレッスンと密接な関連を持って行なわねばなりません。身体の動きと切り離した声のレッスンは、およそ無効です。
 それとともに、もう一つ大事なことを確認しておかねばなりません。(1)のプロセスで刺激が起こるときには、その前に対象との関係を瞬時に測定して、それとの関係づけを求める衝動が生まれます。つまり、声によって何かを伝達しようとする対象と自分との関係が、声の生成過程を条件づけるわけです。
 たとえば、遠くにいる相手に呼びかけようとすれば、無意識に息をたっぷり吸い込み、声帯の収縮は強まり、共鳴は大きく増幅され、言葉は明瞭に発音されます。また、腹がたてば、呼吸は自然に荒々しくなり、厳しい声が出ます。要するに、生きた声には生きた目的があるから、メカニズムは反射的に、自発的に機能するのです。
 だから、声のレッスンの場合、なぜ、なんのために声を出すのかということを忘れると、声のための声のレッスンに終り、単なる機械的なレッスンになってしまいます。声のメカニズムの各プロセスを改善するためには、技術的なレッスンも必要になりますが、生きた声との関係を念頭において、それと関係づけることを決して忘れてはなりません。

声の障害
 最初の欲求に対して声のメカニズムが反射的に反応し、自然に自発的にその機能を遂行してくれるのが理想ですが、現実にはひとによってそれを妨げる様々な要因があります。それは個人の人格の奥深くに潜んでいるので、画一的なレッスンでは、一人ひとりの持っている声の可能性を充分に開くことはできません。それぞれの症状に応じたきわめてパーソナルなカリキュラムが必要になります。

内的抑圧 声が出ないとか言葉が出ないという場合の根本的な要因は、(1)の刺激を引き起こす欲求そのものが内部で妨げられることにあります。これは程度の差はあれ誰にでもあります。欲求を感じても、それを表出することに不安を抱いて抑圧しようとする別の意識や欲求が働くのです。たとえば、どうしても話しかけなくてはならない相手が自分に好意を抱いていないと感じると、相手の反応を警戒して呼吸器と喉の筋肉への信号の伝達を妨げ、自然に充分息を吸い込むことができなくなります。胸の上部に僅かばかりの息しかないのに、話さなければという気持ちだけが残り、そのために口や顎や喉の筋肉を無理に使って声を絞り出さなくてはならなくなります。当然、声はかぼそく、相手に届きません。
 刺激に対する本能的な自発的反応は、無意識の奥に潜んでいるのですが、ひとが成長するにつれて次第に抑圧されてしまいます。成熟した行動には、意識的コントロールと本能的反応のバランスが必要ですが、様々の要因で習慣として条件づけられ、無意識のうちに抑圧されている行動は余りにも沢山あります。だから、笑い、怒り、喜びといった根源的情動を自由に表出できるひとはきわめて稀です。
 こういうことの現れ方は対人関係などの意識の持ちようによって異なり、個人差はきわめて大きくなります。それは人格の迷路と分かち難く結びついているので、セラピーに類したレッスンも必要になります。一見声のレッスンの守備範囲を超えているようですが、しかし、この点を避けていては有効な声のレッスンにはなりません。身体の動きから声までを視野において、全人格を相手にしなくてはなりません。逆に、声を変えれば人格も変わります。

呼吸と声 声の基本的なエネルギーは呼吸によって支えられます。それが足りないときには、口や喉、肩や胸の筋肉でそれを補う力を使って声を出すことになります。すると、いろんな結果が起こります。外面的な節回しでしゃべり、カン高い単調な声になり、力んで声を押しだしたり絞り出したりすることになります。すると、声帯はかすれて炎症を起こし、弾力性を失い、正常な振動を生み出すことができなくなり、小さなブツブツができるようになります。そうなると、聞こえるのは、ざらついたしわがれ声ばかりになり、ついには声が出なくなります。
 以上述べた例は(1)から(4)までのプロセスを含んでいますが、基本的には呼吸の問題です。情動と呼吸の自発的な結びつきを妨げている内的要因を探ることと並行して、呼吸器官の自然な運動能力を再発見することは、両者の結びつきを回復するためには不可欠です。
呼吸に本来のエネルギーが備わっていれば、声帯は無理な緊張から解放され、自然な振動を生み出すことができます。

声の共鳴 (5)の共鳴は、声帯で生まれた振動を声として聞こえるものに増幅し、声の強弱、高低、抑揚、音色を決定する重要なプロセスです。このプロセスを妨害する要因は、(1)から(4)までと同じものですが、それが共鳴と声域を狭めることになります。そのポイントは喉の緊張です。声を出すための力みがあると、声帯周辺は緊張し、音声の通路を圧迫します。そうすると、振動が下の共鳴腔である胸のほうへ下りて行くことが妨げられるので、喉から上の部分に限定され、頭部の共鳴を使いすぎることになります。その声は高い金属的な質をもっていますから、よく通るし、自分の耳で聞くかぎりはよく響いているように感じます。しかし、他人の耳には、か細くて軽く、暖かみに欠け、ときにはカン高く耳ざわりな声に聞こえます。
 喉の緊張は、男らしい落ち着いた声を出したいという欲求と結びつくことがあります。そのときには、喉の奥を押し下げることになり、声は胸の共鳴だけを使った、太くて低いぼんやりした一本調子になります。上のほうの共鳴腔から生まれる艶や陰影に欠けることになります。
 また、喉を使いすぎると、舌の付け根と軟口蓋の隙間が狭くなり、声は鼻のほうへ追いやられ、口腔の共鳴がなくなり、鼻腔とその周辺の共鳴が中心になります。鼻にかかった声は高慢な印象を与え、表情が乏しく繊細さに欠け、よく通るかもしれませんが、言わんとすることが正確に伝わりません。
 以上が歪んだ共鳴反応の典型的な三つの側面ですが、もっと詳しくみれば、各部分の緊張は微妙に絡まり合っています。骨盤の角度によっては胸の筋肉が緊張し、それが呼吸を妨げて喉が緊張することもあります。また、骨盤の角度は、頭の支え方にも影響します。頭の支えがよくないと、首筋の筋肉が過度に緊張し、それは声帯の調節に悪影響を与えます。共鳴は、意識的な筋肉操作によってもコントロールできますが、内的欲求との生きたつながりが切れると、技巧が目立って真実との距離は遠ざかります。

声のアーティキュレーション (6)は構音またはアーティキュレーションのプロセスです。舌の動きは発声器官の機能と深い関係があります。舌は舌骨によって咽頭に接続していて、咽頭は気管を通じて横隔膜とつながっています。この三つの部位のどこかに緊張があると、他の二つの部位にも緊張が伝わります。舌に緊張があると、アーティキュレーションに必要以上の力をこめることになり、言語中枢からの信号に反応する舌の感覚が鈍ります。
 唇は複雑な顔面筋肉の一部です。顔は身体の中でももっとも内面をさらけだしやすい部分です。そのため必要以上の抑止機能が働きがちになります。つまり、素顔を見せまいとして仮面をかぶることが多くなります。顔の表情はそのひとの人格の主要な側面を現しています。子供の頃には内面の動きに応じて生き生きと反応していた顔面筋肉は、成長するにつれて固定したパターンを獲得することになります。
 顔の一部として口を保護している唇は、顔面でもいちばんよく動く部分ですが、ときには自分を閉じ込める牢獄の鉄格子のように固くなることがあります。特に上唇の緊張はかなり一般的にみられる特徴です。それは内心の不安や弱さを外へ現すまいとする自己防衛の印です。上唇が固いと、下唇を極端に動かすしかなく、そのためには顎の助けを借りなくてはならなくなりますが、それはアーティキュレーションのためにエネルギーを浪費することになります。口(顎)の動きがやたらに目立つしゃべり方は声から豊かな抑揚とリズム感を奪い、ぎくしゃくした不自然な感じを与えます。
 以上で、声の欠陥の主な要因とその歪みの一般的な現れ方をかいつまんで見てきました。否定的な側面のみを取り上げたからといって、これは何も声のレッスンの大変さを強調するのが目的ではありません。レッスンのチェックポイントをどこにおけばいいかの見取図を提供したつもりです。

声のレッスンの段階
 俳優のための声のレッスンはいくつかの段階に分けて考えることができます。
 第一の段階は、まず声の土台である呼吸のエネルギーの自然な流れをつくることが課題になります。身体の緊張を解きほぐし、呼吸器官、喉、舌や口の緊張を取り去って、身体運動の力学的センターである下腹部で呼吸を支える感覚を身につけることです。これは前回「身体のレッスン」で取り上げた基本課題そのものです。
 呼吸を身体の中心で支えられるようになると、呼吸は自由になり、喉や胸の筋肉の負担は全然軽くなり、声を出すために無駄な力を使わなくてすむようになります。そうすると、自然で力強い情動的エネルギーが、自由にしなやかに溢れ出るようになります。
 この段階では、喉を緊張させずに声帯の振動を生み出すこと、それを喉ではなく横隔膜と胸郭でコントロールすること、体内の声の通り道から妨害する緊張を取り去ること、そして、頭部と胸の共鳴を統一する基本的な感覚を身につけることが課題になります。
 第二の段階では、共鳴腔を有効に活かすための作業が始まります。主要な共鳴腔は胸と口腔ですが、上のほうには鼻腔の他に、副鼻腔を含む頭骨の共鳴があり、下のほうには、胸郭に同調する横隔膜から腹部、骨盤に到る共鳴もあります。理想的には足先から頭頂までが全体として一つの共鳴腔となることですが、そこまで達するには、各部への作業を意識的に行なわねばなりません。その上で全身の共鳴を統合し、豊かに強化するレッスンも必要です。声の柔軟性、音色、音域を広げることも課題になりますが、これには詩や散文のシンプルなテキストを用いて行なうことになります。
 この段階になると、内的な動機を持った声、目的のある声をテーマにしなくてはなりません。でなければ、単に声のための声のレッスンになってしまう危険があります。
 第三の段階になって、声のアーティキュレーションが課題になります。主に唇と舌、そして顎の動きを改善して、音を明瞭に発音できるようにするレッスンです。アーティキュレーションというと、往々にして早口言葉と混同されています。勿論それも一部としては含みますが、主要な課題は、言葉によるイメージを声として明確に表現することです。その場合、イメージそのものが明確でなければ、言葉を明確に表現することはできません。それには、最初はまずゆっくりと、音を豊かに共鳴させながら、言葉のイメージと声を結びつける作業を行なわなくてはなりません。言葉のイメージと豊かな共鳴を無視して、ただ機械的に早口言葉をしゃべる練習は、言葉の生命を殺すにはとても効果的なレッスンではあります。
 この段階では、詩や散文だけでなく、対話を含んだ小説の一部や戯曲の短い場面など様々なスタイルのテキストを使うことになります。また、テキストなしの即興劇を試みるのもいいでしょう。
 これから先の段階は、戯曲の上演になり、観客との関係の中で声のテーマを深めることになります。それにはさらに大きいコンテキストのなかで課題を展開しなくてはなりませんが、そこまで問題を広げるのは限られた紙面では到底不可能です。しかし、その場合でも、今まで述べた基本的な課題にたえず立ち返ることは、決して無駄ではないどころか、絶対に必要なことです。



俳優のレッスンについて(4)

--- 俳優養成のカリキュラムについて

 俳優のレッスンには、実に多方面にわたる課題があります。今回は連載の最終回ということで、私の考える架空の俳優学校というものを念頭において、そこでのカリキュラムがどんなものになるかを提示してみることにします。
 まず修業期間は三年とします。理想的には四年間ぐらいほしいところですが、実現可能な期限として三年間を考え、各学年を前期と後期に分けることにします。そして、各学期ごとの課題に応じて各種カリキュラムを配置してみます。レッスンは月曜から金曜までの週五日制とし、春、夏、冬の休みがあるものとします。

第一年度
 第一年度には、「身体」と「声」のレッスンを毎日午前中にそれぞれ一時間ずつ、一年を通じて行なう必要があります。これはまずなによりも、表現に向かう自己を解放するために絶対必要な作業で、動きと声の自己イメージ(=癖)の檻から抜け出し、自由な情動の表出を妨げる心身の緊張を解き放つプロセスです。身体感覚を変えて深め広げることにはじまり、心と身体の微妙な関係に気づき、表現者として信じることのできる自分自身の土台を強めるレッスンですから、時間をかけた気長な作業が必要です。その場合、身体と声の関係を見失わないで各人に応じた適切なアプローチをとることがきわめて重要で、指導者は両者の関係について正確な洞察を深める必要があります。
 身体の指導者と声の指導者の方法が矛盾している場合には、生徒はどちらの方法に従ったらいいか分からなくなります。身体の指導者からは腹筋を緊張させ、腹部を引っ込めた状態で動くことを教わり、声の指導者からは腹筋をゆるめ腹部を膨らませて声を出すように教わった場合、生徒の運動中枢は混乱状態におちいります。しかし、これはよくある例なのです。それとともに、身体と声を解放するプロセスから、それらを強化する段階へ徐々に移行しなくてはなりませんが、その場合にも、声の指導者と身体の指導者の緊密な連係作業が必要になります。
 午後は原則として演技の基礎を学ぶことになりますが、この場合にも、身体と声の開発過程と矛盾しないやり方をとらなければなりません。まず最初に自己解放のプロセスがあり、それを土台にして課題を発展させることになります。演技実習の初期の課題は、緊張を取り除き、架空の行動への集中力をつけること、想像力を豊かにすること、自己表現を妨げる自意識の束縛をなくすこと、情動を解放すること、それらを通じて演じることの楽しさを体験することです。これはひじょうにデリケートで個人的な作業でもありますから、時には心理療法のようなものに近づかなくてはならないこともあります。
 第一年度前期の最初の三ヶ月間の演技実習は、書かれたテキストを用いないで、個人的な作業のみに集中するべきです。それにはゲームと即興劇の方法がもっとも効果があります。この分野では、先に述べたように様々な業績がありますが、生徒個々の隠された領域に接近してそれを開かねばならないから、生徒に不安や恐怖を感じさせないで、指導者と生徒が互いに信頼感をもって学ぶことのできる雰囲気が必要です。したがって、指導者の才能や洞察力や人柄がとりわけ重要な要素になります。
 第一年度前期の後半の演技実習は、現代劇の中から、なるべく生徒の年齢に近い登場人物二人の場面を取り上げることになります。この段階でも、「即興」のレッスンは並行して続け、集団的な感受性を開発し、想像力の領域を拡大する必要があります。場面のレッスンでは、二人の生徒の間に生き生きしたリアリティを生み出すことに集中するべきで、テキストはそのための材料となります。作品全体に占めるその場面の位置とか、作者の意図を表現することよりも、生徒の個人的な真実感を行動を通じてどこまで深く体現できるかを重視しなくてはなりません。相手の言葉を聞き、相手の行動に心で反応し、架空の状況を実体験の素材で裏付けして生きたものにする方法を身につけることになります。自分のものではない言葉や行動の中に、表現の根拠である自分自身の内的生命を与えるレッスンです。
 場面レッスンで特に注意すべきは、身体と声の開発との間でバランスをとることです。例えば、声の解放が不十分なのに、強い情動的な叫びを必要とするような場面を選ぶのは、かえって声の開発を遅らせることになります。
 第一年度の後半期にも、「身体と声」「即興」のレッスンは継続します。また、演技実習でも場面レッスンを続けますが、前期とはちがって個々の生徒が自分の新しい領域を発見できるような素材を選ばなくてはなりません。そうやって自分の可能性を発見し拡大する作業を続けて、第一年度の終りには、それまでに学んだ場面からいくつかを選んで観客の前で発表する機会をつくります。小さな空間での小人数の観客であっても、その前で演じるということは、単なるレッスンを超えた貴重なものを体験できます。これは第二年度へ向かう準備にもなります。
 第一年度後半には、ほかに体操の床運動やアクロバットの基礎的テクニックのレッスンがはじまります。身体のレッスンを通じて身体の運動感覚を深める作業はもちろん別に続いていますが、それと関連づけながら、ゆっくりと進まなければなりません。声の面では、詩や簡単な散文、日常的な対話をテキストに使った技術的なレッスンの段階に入ります。
 第一年度には、演劇芸術を総合的に把握できるような教養的な課目も必要です。演劇の歴史、音楽、美術、心理学、身体生理学、人類学、音声学など、アカデミックにならないやり方で、それぞれを短期間に集中的に学べるような方法をとるのがいいでしょう。

第二年度
 第二年度全体の課題は、第一年度に学んだ土台をさらに発展させ、強化することにおかれます。だから、特に目新しい課目が増えるということにはなりません。身体と声のレッスンは、毎日少なくとも一時間以上をかけて続けなくてはなりません。演技実習には、テーマや物語に基づいた音声と動きによる即興のレッスンが加わります。二人場面のレッスンは、この段階でも重要ですが、戯曲の中の登場人物としてのリアリティを表現することにポイントが移ります。戯曲の構造を読み取り、人物相互の関係を把握して、生徒個人の行動様式とは異なる人物にどこまで肉薄できるかに挑戦することになります。取り上げる場面は、しだいに演じる生徒個人の性格や境遇から離れたものを選ぶようにします。
 第二年度の前期から後期にかけては、次の段階として、三人以上の登場する場面のレッスンも行なわれます。その中で、きわめて特殊な人物も取り上げる必要があります。
 第二年度の最終段階では、一幕物を選んで上演するための稽古に入ります。その場合、演出者は、それまでのレッスンを通じて生徒個々の発展段階と各自の特質をよく把握している指導者に任せるのがベストです。演技のレッスンと上演のための稽古は、全く違った側面がありますが、初めての上演に際しては、レッスンから稽古への自然な転換が行なわれるのが望ましいからです。また、毎日の稽古前には、必ず身体と声のウォーミングアップが行なわれます。稽古期間には少なくとも八週間以上かけるようにするべきでしょう。
 第二年度からは、照明や衣裳、メイキャップや音響効果等、舞台技術に関しても学ぶことになります。
 歌と踊りのレッスンをいつ始めるかは問題の多いところですが、最初の一年で身体感覚と声の土台がほぼできると仮定すれば、第二年度からスタートするのがいいでしょう。土台がないところで始めるのは、成果が期待できないだけではなく、かえって弊害のほうが大きくなります。初年度の後期に始まった床運動やアクロバットのレッスンは、第二年度を通じて継続して行なわれます。

第三年度
 第二年度までは、指導者が積極的にリードする側面がどうしても強くなりますが、第三年度は、生徒が自発性を発揮できるような指導が求められます。生徒たちはそれぞれ明確な個性を自覚し、俳優としての意識を確立しはじめます。どういう方向に自分の創造的な資質を向けるべきかの意識が芽生えてきます。それに応じて声や身体の動きについて、どのような作業が必要かを自覚するようになるから、それに対して適切な助言や手段を提供することが指導者の役割になります。
 声や動きに関しては、かなり専門的な技術を身につけられるような課目も必要になります。体操関係、歌、各種の踊り、歌舞伎、能、狂言などの基礎も余裕があれば取り入れる必要があります。しかし、第三年度で一番大きな位置を占めるのは、戯曲に対する作業になります。
 取り上げる戯曲は、日本の現代劇だけではなく、外国の現代劇、西洋の古典劇や近代古典劇、傾向としても喜劇から悲劇まで、できるだけ時代や傾向の違うものを選ぶようにするべきです。演技実習として、最後の一年間に少なくとも四本の戯曲を取り上げて演技の方法を研究することが必要です。
 その他に、最低二回は一晩ものの戯曲を観客の前で上演します。演技に重点をおくのは勿論ですが、最小限の衣裳、装置、小道具、照明、音響効果を使います。演技の指導者以外から演出者を招くことも考慮しなくてはなりません。
 第三年度に取り上げる戯曲については、作者や時代背景の研究、ドラマトルギーや登場人物の分析、作品の歴史的位置の研究なども行なわれなくてはなりません。
 上演に際しては、舞台技術の実際の作業や予算から制作上の実務までを含めて、演劇上演の全分野にわたる仕事を生徒たち自身が管理運営する方法をとるようにするべきです。そのためには、勿論専門家の助言や援助は必要になるでしょうが、そうすることで協同作業としての演劇活動の意味を体得できるでしょう。

 以上でごく大雑把に俳優養成のカリキュラムについて述べましたが、これで俳優としてのスタートラインに立ったことにはなっても、俳優としての自己教育はここから始まるのです。これ以後の数年から十年の期間は、特に重要です。実際の舞台を経験する中で、それまでに身につけたものを総合したり、修正したり、また新しいものを加えたりして行かなくてはなりません。最初に述べた俳優教育の三本の柱である「身体」「声」「即興性」を開発する作業には終りがありません。
 私の考える俳優のレッスンは、きわめて保守的だと思われるかもしれませんが、どのような新しい表現や集団を目指すにしても、俳優としての土台には、少なくとも以上述べた程度のものはどうしても必要になります。新しい実験や冒険に乗り出すにしても、この土台がないかぎり、一晩で枯れてしまう花にしかなれません。
 私の述べたことは、現在では単なる理想論にしかすぎないことは充分に承知しています。これを実現するには、共通した方法論をもった有能な一群の指導者が必要になりますが、それだけの人材を集めることだけでも不可能に近いことかもしれません。連日何人かの生徒が朝から夕方までレッスンに集中できるだけの空間を備えた場所を確保することも、ひじょうに困難なことです。
 最後に、理想の上にさらに楼閣を築く発言を加えることになりますが、このような俳優学校は学費無料で運営しなくてはならないと考えています。深夜までアルバイトで働き、翌朝九時からの動きのレッスンに出席したとしても、リラクセーションのレッスン中に居眠りするだけに終ってしまいます。週末や授業の後の夕方などは、自主的なレッスンや稽古をする必要があります。劇場へ出かけて芝居を観ることも大事なことです。アルバイトに裂く時間が俳優としてのレッスンの障害になるようなことだけは、可能なかぎり避けるようにしなくてはなりません。多少の収入は自分で確保しなくてはならないのが実情だとは思いますが、俳優の卵であるうちは、できるだけ物質的な贅沢は抑制すべきでしょう。
 まだ書き足りないことは多々ありますが、とりあえずここで今回の連載を終ることにします。今回書き残したことや充分煮詰めることのできなかった問題は、いずれ機会があれば改めて取り上げたいと思っています。

>>連載終<<   


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