俳優のレッスンについて(3)--- 声のレッスン
自分の声
声のレッスンでいちばん厄介な問題は、自分の声を自分で正確に聞くことできない点にあります。確かに自分が声を出しているとき、自分の発する声を自分の耳でキャッチしています。しかし、その自分で聞いている自分の声は、他のひとが聞いている自分の声と同じではありません。
たぶん誰でも、自分の声を録音して聞いた経験があると思います。テープから聞こえてくる自分の声を初めて聞いたときのことを覚えているでしょうか。それまで自分の声について抱いていたイメージとテープから聞こえてくる自分の声との落差に愕然としなかったひとは、おそらくいないのではないでしょうか。テープによって再生される声は、写真の場合と同じように、機械的な変形を受けるので、その瞬間の生きたフィーリングをまざまざと再現してくれるわけではありません。しかしながら、録音された自分の声に対し自分自身が感じるほどの違和感を他のひとが感じるわけではありません。最近の進んだ技術では、手軽なテープレコーダでも、かなり正確に人の声を再現してくれます。だから、他人は録音されたあなたの声を聞いても、あなたの生の声との違いに殆ど気づかないのが普通です。どうしてそういうことが起こるのでしょうか。
その一つの原因は、自分の声を聞く場合の生理的メカニズムを考えてみれば分かります。声は、声帯で生まれた振動が内部の共鳴腔で増幅され、口から外へ空気中の音波となって広がります。その音は自分の耳へも他人の耳にも同じように入ってきます。そのかぎりでは、自分も他人も同じ音を聞いているわけです。でも、自分の声にはその他に、体内で増幅された振動が直接頭部の骨伝導によって内耳へ伝わってくる音が加わります。つまり、内から聞こえてくる声です。しかしながら、自分以外のひとには、この音は聞こえません。だから、この内からの声を完全にシャットアウトしないかぎり、自分の声を他のひとと同じ音質で聞くことはできないことになります。
声の自己イメージ
さらにもう一つ、はるかに重要な原因があります。それは、自分の声について自分自身が抱いているイメージにあります。この声の自己イメージは、先の原因もその一部として含みますが、さらに大きく、生まれてからの環境や自己教育の結果として、社会的・文化的・生理的諸条件に制約され規定されて育まれます。それは、声についての感覚や概念、音質や音色の好み、声によるコミュニケーションの個人的特質として、深く身に染みついています。たとえば、自分では内的欲求にしたがって生き生きとしゃべっているつもりでも、周りのひとには生気のないしゃべり方だと思われたり、その逆の場合もあります。また、自分では「ア」と「オ」をはっきり発音しているつもりでも、他人が聞くと、その区別が曖昧であったりします。
自分が出しているつもりの声と他人が聞くその声との違いの主要な原因は、自分の声に対する主観的な感覚と意識、すなわち声の自己イメージにあるのです。「声は人なり」と言ってもいいぐらいで、声にはそのひとの全人格が深く結びついています。声について何かを指摘されると、往々にして深く傷つけられた気がするのはそのせいです。
声がそれほどにも自己イメージに制約されているのだとしたら、自分の声を客観的に聞くことは不可能だということになります。このことは声のレッスンにとって、きわめて厄介な状況を生み出します。
声のレッスンの目的は、客観的な声を改善することにあるのですから、主観的にしか自分の声を聞くことができないとなると、自分の耳に頼った声のレッスンは意味がないことになってきます。常に自分の声がどう聞こえているかをフィードバックしてくれる手段があれば、問題は解決するわけですが、それは無理な相談というものです。有能なボイス・トレーナーに個人的に師事し、四六時中助言を受けられるならば、事情はかなりよくなるかもしれませんが、それはまず不可能に近いことです。また、声は全人格に関わっているので、周りのひとは声の欠陥を指摘することを遠慮するでしょう。
となると、自分でフィードバックする手段を身につけるしかありません。つまり、主観的な声と客観的な声のズレをなくす感覚を身につけること、これが声のレッスンの土台であり、出発点でもあります。しかも、これこそがもっとも有効で永続する方法なのです。
その作業は一人では始められません。まず信頼できる指導者や周りの人の批判的な指摘や助言に謙虚に耳を傾け、よく消化することです。その場合、主観的な声を信用せず、自分の耳を頼りにしないで、声を出しているときの身体感覚をチャッチし、それを通じて開かれた喉や豊かな全身的共鳴の感覚を手に入れることです。そうやって声を出すときの身体感覚を深めてゆけば、耳ではなく身体で自分の声を聞くことができるようになり、主観的な声を客観的に聞くことができるようになるのです。また、声の指導者の役割は、生徒の内に「声の身体感覚」を育てることにあります。
声のメカニズム
声の生理学的メカニズムをごく単純化してまとめると、次のようになるでしょう。
(1) 脳の運動中枢が刺激されて信号を発する。
(2) その信号が呼吸器を刺激し、息が吸い込まれ、吐き出される。
(3) 息の流れが声帯を振動させる。
(4) 声帯の振動は吐く息に振動を伝え音を生み出す。
(5) その音は共鳴腔によって増幅される。
(6) 増幅された音は唇と舌によって調整されて言葉としての構造を形づくる。
ひとが声を出すのは、ある対象に向かって何かを伝えたいという欲求が生まれ、それを実現する手段として声を使って働きかけようとするからです。この欲求が (1)の運動中枢の刺激を引き起こす要因です。これなしには生きた声にはなりません。そして、一連の複雑なプロセスが瞬時に処理されて、(6)で実際の対象に向かって発せられることになります。
非言語的伝達と呼ばれる諸々の要素がありますが、それらは声による伝達の場合にも、当然動員されます。身体の姿勢、身振り、動作、表情、視線、等々、あらゆる伝達手段は声と一体となって表出され、対象との関係を生み出します。それらは、言葉の意味よりもはるかに重要な要素で、(1)から(6)までの声の生まれるプロセスに本質的な影響を及ぼします。
そういう意味で、声のレッスンは、前号で触れた身体のレッスンと密接な関連を持って行なわねばなりません。身体の動きと切り離した声のレッスンは、およそ無効です。
それとともに、もう一つ大事なことを確認しておかねばなりません。(1)のプロセスで刺激が起こるときには、その前に対象との関係を瞬時に測定して、それとの関係づけを求める衝動が生まれます。つまり、声によって何かを伝達しようとする対象と自分との関係が、声の生成過程を条件づけるわけです。
たとえば、遠くにいる相手に呼びかけようとすれば、無意識に息をたっぷり吸い込み、声帯の収縮は強まり、共鳴は大きく増幅され、言葉は明瞭に発音されます。また、腹がたてば、呼吸は自然に荒々しくなり、厳しい声が出ます。要するに、生きた声には生きた目的があるから、メカニズムは反射的に、自発的に機能するのです。
だから、声のレッスンの場合、なぜ、なんのために声を出すのかということを忘れると、声のための声のレッスンに終り、単なる機械的なレッスンになってしまいます。声のメカニズムの各プロセスを改善するためには、技術的なレッスンも必要になりますが、生きた声との関係を念頭において、それと関係づけることを決して忘れてはなりません。
声の障害
最初の欲求に対して声のメカニズムが反射的に反応し、自然に自発的にその機能を遂行してくれるのが理想ですが、現実にはひとによってそれを妨げる様々な要因があります。それは個人の人格の奥深くに潜んでいるので、画一的なレッスンでは、一人ひとりの持っている声の可能性を充分に開くことはできません。それぞれの症状に応じたきわめてパーソナルなカリキュラムが必要になります。
内的抑圧 声が出ないとか言葉が出ないという場合の根本的な要因は、(1)の刺激を引き起こす欲求そのものが内部で妨げられることにあります。これは程度の差はあれ誰にでもあります。欲求を感じても、それを表出することに不安を抱いて抑圧しようとする別の意識や欲求が働くのです。たとえば、どうしても話しかけなくてはならない相手が自分に好意を抱いていないと感じると、相手の反応を警戒して呼吸器と喉の筋肉への信号の伝達を妨げ、自然に充分息を吸い込むことができなくなります。胸の上部に僅かばかりの息しかないのに、話さなければという気持ちだけが残り、そのために口や顎や喉の筋肉を無理に使って声を絞り出さなくてはならなくなります。当然、声はかぼそく、相手に届きません。
刺激に対する本能的な自発的反応は、無意識の奥に潜んでいるのですが、ひとが成長するにつれて次第に抑圧されてしまいます。成熟した行動には、意識的コントロールと本能的反応のバランスが必要ですが、様々の要因で習慣として条件づけられ、無意識のうちに抑圧されている行動は余りにも沢山あります。だから、笑い、怒り、喜びといった根源的情動を自由に表出できるひとはきわめて稀です。
こういうことの現れ方は対人関係などの意識の持ちようによって異なり、個人差はきわめて大きくなります。それは人格の迷路と分かち難く結びついているので、セラピーに類したレッスンも必要になります。一見声のレッスンの守備範囲を超えているようですが、しかし、この点を避けていては有効な声のレッスンにはなりません。身体の動きから声までを視野において、全人格を相手にしなくてはなりません。逆に、声を変えれば人格も変わります。
呼吸と声 声の基本的なエネルギーは呼吸によって支えられます。それが足りないときには、口や喉、肩や胸の筋肉でそれを補う力を使って声を出すことになります。すると、いろんな結果が起こります。外面的な節回しでしゃべり、カン高い単調な声になり、力んで声を押しだしたり絞り出したりすることになります。すると、声帯はかすれて炎症を起こし、弾力性を失い、正常な振動を生み出すことができなくなり、小さなブツブツができるようになります。そうなると、聞こえるのは、ざらついたしわがれ声ばかりになり、ついには声が出なくなります。
以上述べた例は(1)から(4)までのプロセスを含んでいますが、基本的には呼吸の問題です。情動と呼吸の自発的な結びつきを妨げている内的要因を探ることと並行して、呼吸器官の自然な運動能力を再発見することは、両者の結びつきを回復するためには不可欠です。
呼吸に本来のエネルギーが備わっていれば、声帯は無理な緊張から解放され、自然な振動を生み出すことができます。
声の共鳴 (5)の共鳴は、声帯で生まれた振動を声として聞こえるものに増幅し、声の強弱、高低、抑揚、音色を決定する重要なプロセスです。このプロセスを妨害する要因は、(1)から(4)までと同じものですが、それが共鳴と声域を狭めることになります。そのポイントは喉の緊張です。声を出すための力みがあると、声帯周辺は緊張し、音声の通路を圧迫します。そうすると、振動が下の共鳴腔である胸のほうへ下りて行くことが妨げられるので、喉から上の部分に限定され、頭部の共鳴を使いすぎることになります。その声は高い金属的な質をもっていますから、よく通るし、自分の耳で聞くかぎりはよく響いているように感じます。しかし、他人の耳には、か細くて軽く、暖かみに欠け、ときにはカン高く耳ざわりな声に聞こえます。
喉の緊張は、男らしい落ち着いた声を出したいという欲求と結びつくことがあります。そのときには、喉の奥を押し下げることになり、声は胸の共鳴だけを使った、太くて低いぼんやりした一本調子になります。上のほうの共鳴腔から生まれる艶や陰影に欠けることになります。
また、喉を使いすぎると、舌の付け根と軟口蓋の隙間が狭くなり、声は鼻のほうへ追いやられ、口腔の共鳴がなくなり、鼻腔とその周辺の共鳴が中心になります。鼻にかかった声は高慢な印象を与え、表情が乏しく繊細さに欠け、よく通るかもしれませんが、言わんとすることが正確に伝わりません。
以上が歪んだ共鳴反応の典型的な三つの側面ですが、もっと詳しくみれば、各部分の緊張は微妙に絡まり合っています。骨盤の角度によっては胸の筋肉が緊張し、それが呼吸を妨げて喉が緊張することもあります。また、骨盤の角度は、頭の支え方にも影響します。頭の支えがよくないと、首筋の筋肉が過度に緊張し、それは声帯の調節に悪影響を与えます。共鳴は、意識的な筋肉操作によってもコントロールできますが、内的欲求との生きたつながりが切れると、技巧が目立って真実との距離は遠ざかります。
声のアーティキュレーション (6)は構音またはアーティキュレーションのプロセスです。舌の動きは発声器官の機能と深い関係があります。舌は舌骨によって咽頭に接続していて、咽頭は気管を通じて横隔膜とつながっています。この三つの部位のどこかに緊張があると、他の二つの部位にも緊張が伝わります。舌に緊張があると、アーティキュレーションに必要以上の力をこめることになり、言語中枢からの信号に反応する舌の感覚が鈍ります。
唇は複雑な顔面筋肉の一部です。顔は身体の中でももっとも内面をさらけだしやすい部分です。そのため必要以上の抑止機能が働きがちになります。つまり、素顔を見せまいとして仮面をかぶることが多くなります。顔の表情はそのひとの人格の主要な側面を現しています。子供の頃には内面の動きに応じて生き生きと反応していた顔面筋肉は、成長するにつれて固定したパターンを獲得することになります。
顔の一部として口を保護している唇は、顔面でもいちばんよく動く部分ですが、ときには自分を閉じ込める牢獄の鉄格子のように固くなることがあります。特に上唇の緊張はかなり一般的にみられる特徴です。それは内心の不安や弱さを外へ現すまいとする自己防衛の印です。上唇が固いと、下唇を極端に動かすしかなく、そのためには顎の助けを借りなくてはならなくなりますが、それはアーティキュレーションのためにエネルギーを浪費することになります。口(顎)の動きがやたらに目立つしゃべり方は声から豊かな抑揚とリズム感を奪い、ぎくしゃくした不自然な感じを与えます。
以上で、声の欠陥の主な要因とその歪みの一般的な現れ方をかいつまんで見てきました。否定的な側面のみを取り上げたからといって、これは何も声のレッスンの大変さを強調するのが目的ではありません。レッスンのチェックポイントをどこにおけばいいかの見取図を提供したつもりです。
声のレッスンの段階
俳優のための声のレッスンはいくつかの段階に分けて考えることができます。
第一の段階は、まず声の土台である呼吸のエネルギーの自然な流れをつくることが課題になります。身体の緊張を解きほぐし、呼吸器官、喉、舌や口の緊張を取り去って、身体運動の力学的センターである下腹部で呼吸を支える感覚を身につけることです。これは前回「身体のレッスン」で取り上げた基本課題そのものです。
呼吸を身体の中心で支えられるようになると、呼吸は自由になり、喉や胸の筋肉の負担は全然軽くなり、声を出すために無駄な力を使わなくてすむようになります。そうすると、自然で力強い情動的エネルギーが、自由にしなやかに溢れ出るようになります。
この段階では、喉を緊張させずに声帯の振動を生み出すこと、それを喉ではなく横隔膜と胸郭でコントロールすること、体内の声の通り道から妨害する緊張を取り去ること、そして、頭部と胸の共鳴を統一する基本的な感覚を身につけることが課題になります。
第二の段階では、共鳴腔を有効に活かすための作業が始まります。主要な共鳴腔は胸と口腔ですが、上のほうには鼻腔の他に、副鼻腔を含む頭骨の共鳴があり、下のほうには、胸郭に同調する横隔膜から腹部、骨盤に到る共鳴もあります。理想的には足先から頭頂までが全体として一つの共鳴腔となることですが、そこまで達するには、各部への作業を意識的に行なわねばなりません。その上で全身の共鳴を統合し、豊かに強化するレッスンも必要です。声の柔軟性、音色、音域を広げることも課題になりますが、これには詩や散文のシンプルなテキストを用いて行なうことになります。
この段階になると、内的な動機を持った声、目的のある声をテーマにしなくてはなりません。でなければ、単に声のための声のレッスンになってしまう危険があります。
第三の段階になって、声のアーティキュレーションが課題になります。主に唇と舌、そして顎の動きを改善して、音を明瞭に発音できるようにするレッスンです。アーティキュレーションというと、往々にして早口言葉と混同されています。勿論それも一部としては含みますが、主要な課題は、言葉によるイメージを声として明確に表現することです。その場合、イメージそのものが明確でなければ、言葉を明確に表現することはできません。それには、最初はまずゆっくりと、音を豊かに共鳴させながら、言葉のイメージと声を結びつける作業を行なわなくてはなりません。言葉のイメージと豊かな共鳴を無視して、ただ機械的に早口言葉をしゃべる練習は、言葉の生命を殺すにはとても効果的なレッスンではあります。
この段階では、詩や散文だけでなく、対話を含んだ小説の一部や戯曲の短い場面など様々なスタイルのテキストを使うことになります。また、テキストなしの即興劇を試みるのもいいでしょう。
これから先の段階は、戯曲の上演になり、観客との関係の中で声のテーマを深めることになります。それにはさらに大きいコンテキストのなかで課題を展開しなくてはなりませんが、そこまで問題を広げるのは限られた紙面では到底不可能です。しかし、その場合でも、今まで述べた基本的な課題にたえず立ち返ることは、決して無駄ではないどころか、絶対に必要なことです。
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